宋史卷三百五十五 列傳第一百十四 虞策

生涯

  • 字は経臣。杭州銭塘の人。進士及第、台州推官・烏程県知事・蘄州通判を経て、蔣之奇の推薦により提挙利州路常平・湖南転運判官。
  • 元祐五年、監察御史から右正言に進み、君主の諫言受納の重要性・清静を根本とする治道・西夏に対する警戒の緩みを指摘、内外の官に朝政の欠失や民の疾苦を陳述させるよう求める。
  • 哲宗の「正始要言」上呈後、左司諫に遷るが曾肇の北郊議論を巡る対立に連座、給事中として親政後の五十六の当面課題を上奏、侍御史・起居郎・給事中を歴任、龍図閣待制として青州・杭州を知り戸部侍郎・刑部戸部尚書・枢密直学士として永興軍・成都府を知り吏部尚書に至る。
  • 財政均節を求める上奏で、戸部の経費が祖宗以来増大し続けている実態(皇祐三千九百万で費用三分の一、治平四千四百万で五分の一、熙寧五千六十万で全額消費)を詳述し節約を求めるが、疾により潤州知事に転じ道中で六十六歳で没、左正議大夫を贈られた。元祐・紹聖両時期とも言官職にありながら是々非々の姿勢を保ち党争を免れたと評される。
  • 弟の奕:字は純臣。進士及第、崇寧中河北西路常平提挙、洺相の飢饉対策で東路に転じる際、流民が帰る前に耕桑期を逃すことを憂慮。監察御史として親祭北郊での燕人趙良嗣の異例な参列に異議、陽武の富家殺人事件の裁判不正を糾明。
  • 河北刑獄提点として塘濼屯田による貴人の民田侵占問題を五つの不可を挙げて上疏し屯田廃止を実現、開封少尹として大理・開封の量刑不整合を正し「非情法実不相当は請を許さず」の原則を確立。
  • 光禄卿・戸部侍郎、睦州の乱鎮圧の功で龍図閣直学士として鎮江府を知り、戸部の内侍による内蔵の専断に抗議し自ら職を辞し工部に転出。襲慶知事張漴の登封請願の是非を巡り、東平守王靚を弁護し六十歳で没、龍図閣学士を贈られた。