宋史卷三百五十四 列傳第一百十三 謝文瓘

生涯

  • 字は聖藻。陳州の人。進士甲科、大名府教授。元豊中、新法の実施における弊害(榜笞・禁錮・搾取)を上疏し、大臣に「訕謗」と評されたが神宗は「法を奉ずる者が不適であると言っているだけで訕謗ではない」と擁護した。
  • 哲宗朝、御史中丞黄履の推薦で主簿となるが三年執政府に赴かず。祕書省正字・考功右司員外郎を経て、紹聖末、都水使者が広(缺)武四埽の石岸建設を議した際、先に数十歩を試験施工させ可否を検証させ、多くの死者を出したこの事業の続行を止めさせた。
  • 徽宗即位後、起居舎人・給事中に抜擢、神宗宝訓の編修を命じられたが、その論は概ね王安石を是とするもので、党争消長を安石の言に依拠して説いた。
  • 遼主洪基没時、弔問使に赴き随行者が服を変えて入国したことで二等降格。崇寧元年、濮州知事、党事の処理に携わり、元豊上疏や呂公著への書簡が問題視され邵武軍・処州に転任。
  • 帝が党籍を閲し「文瓘の本末を究め知る」と籍から除いた後、集英殿修撰・済州知事となり卒。
  • 子の貺:宣和中、駕部員外郎・汝州知事。欽宗朝、十篇の封事を上奏し、金への使者から帰任後京西北路刑獄提点、金軍の汝州侵攻に際し襄陽から救援に赴き戦死。