宋史卷三百五十一 列傳第一百十 鄭居中

経歴

  • 鄭居中、字は逹夫、開封の人。崇寧中都官礼部員外郎から起居舎人・中書舎人。徽妃の従兄弟と自称し外戚として累進、妃の父鄭紳の門客の讒訴で一時和州・頴州に流されたが翌年復官、給事中・翰林学士・同知樞密院に至った。
  • 妃の後宮での寵愛を宦官黄経臣に頼らず自力で得ようとし、蔡京の失脚に劉逵と共に加担、彗星による帝の悔悟を利用して京の政策転換を留めようとしたが、劉正夫と共に真意を伝えて京の復権に貢献した。都水使者趙霖の献じた双頭亀を瑞祥と称える京に対し「首が二つあるのは不吉」と反論、帝はこれを支持した。
  • 知樞密院、太宰、少保、少師、崇宿燕三国公に至る。金との燕雲奪還密約には強く反対し「漢代の和戎の費用を思え」と諫めたが議は進み、王黼・童貫の再挙にも反対したが用いられず、燕山平定を機に功なきを理由に辞退。急病で卒し年六十五、太師・華原郡王・諡文正を贈られ、帝自ら墓碑を篆した。
  • 息子の鄭修・鄭億年は共に侍従に至ったが、億年は靖康の乱で金に連行され劉豫に仕えた後帰国、秦檜の縁で資政殿大学士に至った。文中には安堯臣の燕雲政策反対の上書も紹介されている。

史論(趙挺之~鄭居中)

  • 君子と小人は氷炭のように相容れない。趙挺之は小才を用い新法に迎合し元祐更化で疎まれ、紹述の首唱者として正人を排したが、その蔡京批判も権寵争いに過ぎず「楚もまた斉に劣らず」の類であった。
  • 徽宗は蔡京の専断を制するため張商英・鄭居中らを対抗させたが、両者とも利によって離合するのみで公議とは無縁だった。張商英は詭弁の忠直を装い、何執中は旧学の縁で顕位に至りながら陳瓘迫害を主導し、劉正夫も張商英と同類、張唐英のみ清才で王安石推挙の一事のみ咎めるべきである。