宋史卷三百五十一 列傳第一百十 劉正夫

経歴

  • 劉正夫、字は德初、衢州西安の人。太学で名を知られ「四俊」と称された一人。高魯王の諱に触れた五人の一人として黜けられるところを宣仁后の裁定で末位に留められた。石豫の推薦で左司諫に召され、蔡邸獄で徽宗に「淮南尺布斗粟」の故事を引いて解散を進言し評価された。元祐・紹聖両朝の神宗史の食い違いを折衷編纂すべきと建言し、編修官・給事中・礼部侍郎に進んだ。
  • 蔡京への接近と、京の失脚後は鄭居中と共に密かに京の復権を助け、京の政変後の一時的な冷遇(春宴楽語事件で張康国に讒言され龍図閣直学士に降格)を経て工部尚書・右丞・中書侍郎に復帰。太学生の楽官任官反対、東封儀物の中止進言など京と一線を画す姿勢を示した。
  • 政和六年、少宰を拝すも半年で疾に倒れ安化軍節度使・開府儀同三司で致仕、燕雲事件では対金交渉に慎重論を述べ、康国公に封ぜられて詩や硯筆を賜り、途上で年五十六で卒、太保・諡文憲、後に太傅を追贈された。博士から宰相に至ったが吝嗇で財を惜しみ、晩年杭州万松嶺に豪邸を建てて非難された。