宋史卷三百五十一 列傳第一百十 張商英

経歴

  • 張商英、字は天覺、蜀州新津の人。身長偉丈夫で気概に富んだ。渝州蛮の叛乱を説得で降し南川県知事、章惇の夔州経制で人材として引見され問答で惇を圧倒し上客とされた。王安石の推挙で検正中書礼房、監察御史台獄の失出事件で樞密検詳官劉奉世を弾劾し返り討ちにされたが、神宗の裁定で不問に付され、後に他事で監荊南税に落とされた。
  • 哲宗初、開封府推官として新法の急激な変更に反対する上書を行い、その後右正言・左司諫として元祐大臣を激しく攻撃、司馬光・呂公著らを比武に等しいと非難し追贈剥奪・碑毀墓破壊まで求めた。章惇と安燾の対立に乗じて政争を仕掛けたが哲宗の不興を買い左司員外郎に落ち、さらに江寧酒務に流された。
  • 徽宗朝、吏部刑部侍郎・翰林学士を経て蔡京拝相時は褒め称える制文を書いたが、後に京と対立し尚書右丞から知亳州に落ち、元祐党籍に入れられ鄂州・陝州へ流転した。大観四年、京の失脚で杭州知事から呼び戻され、対策として「神宗の法度を継承しつつ弊があれば改める」との中庸論を説き、尚書右僕射に至った。
  • 蔡京の専横的な紹述解釈を批判しつつ、大銭改鋳・鈔法通商・苛斂軽減・帝の華美節減など実務的な善政を行ったが、意志は広く才は疎かで公の場で批判を先に洩らすため反対派に対策を許した。楊戩の節度使就任に反対し内侍の格式を守った。何執中・鄭居中の讒言により郭天信との交際を疑われ観文殿大学士から崇信軍節度副使・衡州安置に落ち、太学生の弁護で復官、宣和三年年七十九で卒し少保を贈られ、靖康の司馬光・范仲淹顕彰に合わせて太保・諡文忠を追贈されたが世論は納得しなかった。

唐英――経歴(附伝)

  • 兄の張唐英、字は次功。読書に励み馬周・魏元忠に比される正議五十篇を著し、賢良方正科は辞退し榖城令として旧債整理と柳千株の柳亭造成で名を知られた。英宗継位に際し濮議の再来を予見した上書、頴王を皇太子とする建言を行い、神宗即位後は殿中侍御史として王安石の登用を進言、宗室禄制改革・差役の負担軽減も説いた。父の喪の後まもなく卒し、『仁宗政要』『宋名臣伝』『蜀檮杌』などの著作を残した。