経歴
- 張守約、字は希參、濮州の人。蔭補で原州截原砦を主管し、水令逋等十七族万一千帳を招撫。広南走馬承受公事として儂智高の乱後の南方利害を四度上奏、欧陽修に才略を認められ融州知事となり峒将呉儂の乱を鎮圧、さらに定州路駐泊都監として秦鳳で生羌の隠田千頃を整理し硤石堡・甘谷城を築いて功第一とされた。
- 夏軍万騎の来寇を五百の兵で迎え撃ち酋長を射殺し撃退。神宗の熙河開拓構想には「王韶なら成るが董氈への配慮を欠くべきでない」と応じ、通遠軍設置を建議して採用された。熙河鈐轄として干敦波の三万羌軍を破り窖粟を得たが、老弱の追撃は不要と制止した。
- 鬼章の岷州包囲を偽装攻勢で解き知岷州、鎮戎軍・環州知事として頡佷族の反乱を鎮圧。霊武遠征では高遵裕に先出撃・糧秣三日分による奇襲を進言したが用いられず敗北を招いた。捍海の功も記録されず、環慶都鈐轄・涇原鄜延秦鳳副総管・康州刺史を経て涇州で治水の要否を巡り「凶年の労役は河害より重い」と判断し河神祠の遷座で水害を回避したという。
- 龍神衛四廂都指揮使として召還の途上、年七十五で卒。神宗は武臣の任すべき者として燕達・劉昌祚・姚麟・王崇極・劉舜卿らと共に張守約を挙げ、後にみな名将となったことから知人の明と称された。