経歴
- 王君萬、秦州寧遠の人。殿侍から秦鳳指揮使となり、王韶の開辺に従い青唐大酋俞龍珂の帰順の中で唯一従わなかった新羅結を狩人を装って接近し斬首した。武勝攻略では于闐貢物を奪った藥厮逋を単騎で討ち取り、北関・南市の攻略で最も功が多く、熙河路鈐轄・英州刺史・逹州団練使を得た。
- 河州包囲を王韶に「南撒宗城を攻めれば囲みは自ら解ける」と献策して的中させ、客省使・副総管に至ったが、糴銭数万緡の貸与を巡り転運使孫廻と対立し秩を一等貶められた。西山鉄城討伐の功で復官するも、番官木舟の訴えで鳳翔鈐轄に落ち、家財を売って未払いの糧銭を償い憤死した。
王贍――経歴(附伝)
- 子の王贍、李憲の下で戦功を積み皇城使・開州団練使に至る。元符中、知河州として冒白草原の賞獄に連座するが自首し、逆に青唐叛意を口実に張詢を欺いて挙兵の許可を得た。哲宗は詢の専断を罪とし孫廻に実情究明を命じ、王贍は十一官を奪われながらも知州の地位を保った。
- 章惇・孫路に取り入り青唐攻略を進言、邈川を奪取したが総管王愍を欺いて功を独占し、路との対立、心牟欽氈らの離反、隴拶の入城を招くなど混乱を繰り返した。宗回の督促で隴拶・心牟を降し鄯州(後の鄯州=湟州)を得たが、羌の再叛乱、心牟らの誅殺、種朴らの相次ぐ戦死を招き、李譓・秦希甫らに財物横領と口封じの殺害を弾劾された。曾布に「万死に値する」と断じられ房州安置に減じられ、樞密院の斬刑要求により昌化軍配流の途中、穣県で縊死した。
- 崇寧初、蔡京が政権に復すと功を再評価され保平軍節度観察留後を追贈、子の王珏は通事舎人に任じられた。