宋史卷三百四十九 列傳第一百八 宋守約

経歴

  • 宋守約、開封酸棗の人。父の任で左班殿直となり、恩州知事として乱後の民心を安んじる自らの決意を仁宗に述べた。益州路鈐轄、文州刺史、康州団練使、雄州知事を経て龍神衛捧日天武都指揮使・馬歩殿前都虞候、洋州観察使。
  • 給糧不足による兵士の騒動を法によらず牙校を通じて鎮め、歩軍副都指揮使・威武軍留後。神宗の禁軍簡練策を厳格に実行し、当初は怨嗟を招いたが後に服した。「陛下のために紀律を明らかにするのであり、恨みは自分が引き受ける」と答え帝を感心させたが、枢府への抜擢は宰相の反対で流れた。
  • 郊祭年の兇悍士卒の配流や糧食代納の罰則を厳格に復活させ、軍中は粛然とし蟬の声すら排除させるほど徹底したという。十年在任、卒年七十一、安武軍節度使を贈られ諡は勤毅。

宋球――経歴

  • 子の宋球、蔭補で礼賓院幹当となり、秦川の券馬の弊害を四点条陳して馬商に便を与えた。高麗使を二度務め山川・風俗を密偵して図紀を上奏、神宗に称賛され通事舎人に進んだ。
  • 神宗崩御の告哀に赴いた契丹で吉服着用の圧力に対し「通和すでに久しく、憂患を共にする」と拒否し契丹側に押し切られなかった。西上閤門使・枢密副都承旨に至り、謹密な人柄で朝廷の機密を家人にも漏らさず、在官のまま卒した。

史論

  • 郝質から宋守約に至るまで、いずれも実直忠篤な一時の名将であり、太平の世に生まれ辺境の警急少なく、節旄を帯び殿陛に立ち高爵厚禄を得て天寿を全うしたのは当然のことである。
  • 姚氏は代々武を用いて奮起し、姚兕と弟姚麟は共に関中で「二姚」と称される威名を得た。姚兕の子姚雄も戦功により節度使に至ったが、姚古は敗戦により貶謫され、その才の優劣が明らかとなった。