宋史卷三百四十九 列傳第一百八 姚兕

姚兕、字は武之、五原の人。父姚宝は定川で戦死。西夏との攻防で数々の武功をあげた将で、弟の姚麟と共に関中で「二姚」と称された。子の姚雄・姚古も武将として名を残し、姚雄は節度使に至ったが姚古は敗戦により貶謫された。

年表(2件)
  • 紹聖三年1096年渭州知事への転任を巡る議論の末、留任し武康軍節度使・殿前副都指揮使に至る(弟姚麟)
  • 靖康元年1126年金兵が京城に迫ると种師中・折彦質・折可求らと共に勤王の兵を挙げる(子姚古)

経歴

  • 姚兕、字は武之、五原の人。父姚宝は定川で戦死。環慶巡検として西夏の酋長を射殺し蘭浪を破った。荔原堡で険を頼みに疑兵を用いて敵酋の目を射抜き、その後も数百人を射殺、指が裂けて血を流しながら防戦、子の姚雄に背後を衝かせて敵を退けた。大順城救援では三日間転戦し数千級を斬り二城を保全した。
  • 慶州の軍の叛乱では親兵で西関を守り、投降兵と語らって感泣させ再叛乱を防いだ。神宗に召見され騎射を試され路都監に遷り、鄜延・涇原に転じた。河州攻略では耳を矢で貫かれてなお奮戦、鬼章の包囲を「必ず救う所を攻めよ」との策で解いた。
  • 皇城使、鈐轄、交趾での功、雅州刺史、乞弟討伐、忠州団練使、副総管、東上閤門使を歴任。熙河で种誼と鬼章を洮州に討ち六逋宗城を破り、夜に浮橋を断って援軍を遮断し鬼章を捕えた。通州団練使、鄜延総管在任中に卒し忠州防禦使を贈られた。
  • 幼くして父を失い母に孝を尽くし、器物に「仇讎未報」の字を刻んで自らを励まし、老いても兵書と顔真卿の書を愛した。弟の姚麟と共に関中で「二姚」と称された。

姚麟――経歴

  • 姚麟、字は君瑞。兄姚兕の河州攻めに同行し、矢が骨に達しても平然と抜かせて戦い続けた。皇城使、秦鳳副総管、李憲の生羌討伐で冷雞朴を捕え、東上閤門使・英州刺史。
  • 元豊西討で涇原副総管として劉昌祚に従い磨斉隘で勝利したが、高遵裕の敗北で皇城使・永興軍路鈐轄に降格、のち涇原副総管に復帰。夏人の蘭・会両地割譲要求には反対し、「秉常が廃されていない以上、順命として息兵できるが蘭・会だけは与えられぬ」と献策した。
  • 威州団練使、龍神衛四廂都指揮使、歩軍殿前都虞候、副都指揮使を歴任。紹聖三年(1096年)、渭州知事転任を巡り安燾・曽布・韓忠彦の間で議論となり留任、武康軍節度使・殿前副都指揮使に至った。王贍の青唐攻略には「朝廷は息兵を望むのになぜ大患を招くか」と危惧し、後に王贍は敗れた。
  • 徽宗即位で都指揮使、建雄・定武軍節度、検校司徒。卒し帝自ら弔問、開府儀同三司を贈られた。沈毅持重で法を曲げず、宿衛士の犯法赦免の後もあえて庭で杖罰を加え、その後で抗詔の罪を請うたため軍中は粛然としていた。

姚雄――経歴

  • 姚雄、字は毅夫。十八歳で父に従い金湯を討ち百騎で先登、荔原堡の功を成した。韓絳の推挙で延和殿にて閲試を受け、安南・瀘州の役に従軍。涇原・秦鳳の将となり甘谷城に駐屯した。
  • 紹聖中、渭帥章楶の平夏築城戦で熙河兵を率い、矢が肩を貫いてもなお奮戦し夏軍を大破、斬首三千級・俘虜数万を得た。折可適の没煙敗戦の直後で士気が沈む中の勝利であった。東上閤門使・秦州刺史に擢される。
  • 平夏の危機を弟姚古と共に救い、知会州に徙る(この間一部欠文)。熙河鈐轄王贍の青唐略地に従い苗履と共に邈川を救援、蘭渓宗の残敵掃討では苗履の失策を諫めたが聞かれず、退却する苗履軍を救って敵を破った。种朴の戦死・王贍軍の陥没に際し鄯州から湟州まで四戦全勝し、安郷関を築いて浮梁を守り湟水漕運の商旅を通わせた。
  • 建中靖国初、湟州放棄を巡り姚雄自身は「放棄可」と答え趙懐徳に与えられたが、蔡京の王厚起用で河湟回復後、罪を問われ光州居住・のち金州に流されたが後に赦された。高永年の死後、熙河経略として西寧の戦後処理にあたり、滄州知事から再び熙州、安徳軍節度観察留後・歩軍副都指揮使、武康軍節度使を経て金吾衛上将軍に転じ、なお武康節度として熙州を統べた。熙河十八年で十六人の帥が代わる中、姚雄のみ三度赴任し計六年在任。検校司空・奉寧軍節度使で致仕し卒、開府儀同三司を贈られ諡は武憲。

姚古――経歴

  • 姚古も辺功により熙河経略に至った。靖康元年(1126年)、金兵が京城に迫ると种師中・折彦質・折可求らと共に勤王の兵を挙げた。子の姚平仲は种師道と先んじて入衛したが、种氏との功名争いから夜襲を独断で謀り失敗、和議を経て姚古は种師中・折彦質・范瓊らと共に護送の兵を率いた。
  • 隆徳府陥落後、河東制置として种師中と共に太原救援にあたり、隆徳府・威勝軍を回復したが太原の囲みは解けなかった。种師中との掎角策で楡次等県を回復したものの、姚古と張灝の合流の遅れで种師中は戦死。姚古自身も盤陀で金軍に敗れ龍徳に退き、解潜に交代させられた。
  • 威勝軍在陣中、部下の焦安節が虚偽の情報で軍情を動揺させ逃亡を勧めたため両郡が潰乱、李綱は焦安節を斬り、中丞陳過庭は姚古を厳しく弾劾、広州安置となった。