経歴
- 劉昌祚、字は子京、真定の人。父劉賀は定州で戦死し、右班殿直に録された。青塘の塩井紛争を平和裏に収め、遼への使者往来で神宗に射術を認められ通事舎人となった。
- 劉溝堡での夏軍伏撃を見破り黒山の敵大酋を射殺、帥臣李師中に「西事以来、寡をもって衆を撃つこと昌祚に及ぶ者なし」と評された。階州・畳州平定、蜀での畢篥羌撃破の功で皇城使・栄州刺史・秦鳳路鈐轄、果州団練使・知河州に至る。
- 元豊四年(1081年)、涇原副都総管として姚麟と共に蕃漢兵五万を率い、環慶の高遵裕の節制を受け霊州へ西征。磨斉隘で夏軍十万を破り斬首一千七百級、鳴沙川の窖粟を得て霊州城に迫るも、高遵裕の慎重論で攻城を止められた。
- 高遵裕の攻城失敗(十八日囲むも陥落せず、七級渠の水攻めで潰走)により涇州軍が殿を務め、劉昌祚自ら剣を手に渡河を見届けたが糧尽き軍紀が乱れ、永興軍鈐轄に貶された。
- 涇原に復帰し永楽城陥落後の馬政再建、義合から徳靖砦まで七百里の堡塁配置の定式を上奏。塞門・安遠砦での勝利で葉麻咩・吪埋の二将を討ち、画像を献上され帝に喜ばれた。
- 哲宗即位後、雄州団練使・知渭州、馬軍殿前都虞候。渭州の弓箭手馬口分地の制度を整備、隴山間の田を万頃括量し士卒五千の精鋭部隊を新設。西夏への四寨返還には反対した。殿前副都指揮使・冀州観察使・武康軍節度使、年六十八で卒し開府儀同三司を贈られ諡は毅粛。
- 気貌雄偉で騎射に優れ、矢は百歩の外まで届き、夏人はその矢を神物として奉じたという。射法の著作は後世に伝わった。