出自と蔡京・張商英批判
- 洪彦昇、字は仲達。饒州楽平の人。進士に及第し常熟尉として、前任者の期限延長による不正な収賄慣行を拒み印を受け取った。彬州判官、鎮東軍節度判官、広西経略府の招きを経て提挙常平に抜擢、御史中丞石公弼が推薦する新任提挙広西学事幸義可と辞見が同日となり、徽宗は両者を留任させ監察御史とし、殿中侍御史に進んだ。
- 5年間の在任中、蔡京が再び宰相となり紹述の名で先朝の法度を敗壊し朋姦誤国したこと、印を返上した後も都城に留まり眷顧を恃んで跋扈の志を抱いていることを論じ「早く追放すべき」と主張した。何執中の位に不相応な無為ぶり、呂恵卿と張懐素の親交(惠卿が懐素を黄石公に喩えた序文)を批判、鄧洵仁・蔡薿・劉極・李孝稱・許光凝・許幾・盛章・李譓・任熙明らの過失も次々と摘発した。
- 張商英と給事中劉嗣明の争いでは商英を蔽罪(罪を隠す)と断じ、商英去任後も郭天信の讖術による重用を弾劾、士大夫の命術・釈教への傾倒を禁ずるよう求めた。諸道監司に対する法令未整備の報告義務が形骸化している実態を指摘し、賞罰の明確化を求めた。給事中に進んだが、張商英の復官の詔に反対したとして知滁州に出され、右文殿修撰、徽猷閣待制・知吉州、知潭州(赴任前)を経て享年63で没し、大中大夫を追贈された。
史論
- 論じて曰く、蔡京の権勢が炎のように盛んな中、これらの人物は力を尽くしてその罪を連ね攻め、正しいように見えるが、葆光・克公は鄭居中に、公弼・注は張商英に党したところがあり、いずれも端直の士とは言い切れない。傅楫の先見、沈畸・蕭服の不阿、汝明の不欺、彦昇の孤立した節はそれぞれ賢と言える。ただ徐勣は宮邸の旧学として人望を集めながら政の中枢に登らせられず、蔡京に至っては一度罷免してもすぐまた起用された。善を善として用いず悪を悪として去らなかった徽宗のこの態度は、斉桓公が郭の滅亡を嗤った故事にも似ている。