出自と交趾遠征・徽宗の信頼
- 徐勣、字は元功。宣州南陵の人。進士に及第し呉江尉、桂州教授を経て交趾討伐に従軍、瘴地での徭役忌避者への杖罰を「肌痩病乏の者に杖は酷、臂に傷をつける程度で足りる」と穏便に処理し使者と対立したが自説を曲げなかった。郭逵の遅疑に対し「主帥の討賊意欲が足りねば功は成らぬ」と趙卨に語り蛮の情勢を朝廷に上奏、後に逵・卨とも無功で貶された。
- 舒亶の推薦を人柄を理由に拒み、建平県知事、諸王宮教授、通州通判として海の堤を修築し漂溺の害を防いだ。広陵申王院教授、諸王府記室参軍を経て哲宗にその文才を評され、徽宗即位後、寳文閣待制兼侍講、中書舎人として神宗史を修撰。紹聖の党人がまだ朝廷にいる中、帝は勣に「臣僚の進対はほぼ詐か諛だが卿だけが鯁直」と語った。范純仁・韓忠彦の召還を予告され勣は「得人なり」と賀した。
- 蔡京と共に五朝寳訓を校訂する命に対し、勣は京との連職を固辞し盧杞の故事を引いてその悪を諫めた。給事中・翰林学士として時要・任賢・求諫・選用・破朋党・明功罪の6事を上疏。神宗正史編纂の停滞を「元祐・紹聖の史臣の好悪が異なるため」と分析し、各家の記録を参照し是非を検討すべきと提言、帝はこれに同意した。
- 帝が新法の害の除去と紹述論の間で迷った際、勣は「両存を望むなら是非未定・政事未一のまま姑息な策になる」と諫め、湟州放棄の議論にも「辺事を妄りに興すべきでない」と反対した。蔡京は宮僚旧誼で近づこうとしたが勣は節を曲げず、親の病で帰省する際も帝は引き止めなかった。父母の喪に服す間に京・何執中が勣の起草した章惇の詞を先烈への誹謗として摘発し、服喪明けの復官後も知江寧府で罷免された。
- 大観3年(1109年)知太平州として茶塩法の弊を極論、龍圖閣直学士・留守南京を経て、蔡京が銭塘から召還される際に「元功(勣)の遭遇は伯通(何執中)に及ばない、伯通は既に相となった」と揺さぶったが勣は「志は利禄で変わらない」と笑って答えた。以後重用されず、致仕して享年79で没した。資政殿学士正奉大夫を追贈。挺挺として正を持したが大用に至らず、当時惜しまれた。