宋史卷三百四十八 列傳第一百七 沈畸

出自と蘇州冤獄の是正

  • 沈畸、字は徳侔。湖州徳清の人。進士に及第し州県官を歴任、崇寧年間、尚書議禮編修官から召対され監察御史に抜擢された。六察に言事の法がないことに不満を持ち匭(投書箱)を通じて花石の民擾・土木の国害・冗費・恩沢濫発・議論不統一・下情不通の十事を上疏した。特に夾錫銭(当十銭)に対する批判が的確とされ、小銭の便益と当十銭乱発による通貨混乱、東南の軽銭・重物価による民の困窮を論じ、陝西の夾錫銭を西北にも波及させることの危険を指摘した。
  • 殿中侍御史として、国子監門で小内侍が横暴に道を塞いだ事件を追及し内省の調査で処罰させた。蔡京が蘇州の銭獄を興し章綖兄弟を陥れようとした際、開封尹侯孝壽・御史張茂直が数百人に盗鋳の罪を強制的に承認させたが京はなお緩いとして畸と御史蕭服を派遣し買収を図った。畸は蘇州に着くと即日700人を釈放し「天子の耳目司でありながら権要に阿って人を殺し富貴を求めてよいのか」と嘆じ、事実を暴いて上聞した。京は激怒し畸を三秩落として信州酒税監に左遷し、後に獄事は復旧した。羈管明州の使者が棺を暴こうとした際、子の濬の訴えで止まった。建炎初年、龍圖閣直学士を追贈された。濬は右正言に至った。

蕭服――出自と徳治

  • 蕭服、字は昭甫。廬陵の人。進士に及第し望江令として教化を本とし、王祥・孟宗の故事にちなむ亭を建て、唐の県令の裁判文を石に刻んで民に示した。烈女の孝行話も伝わる。高安県尉として冤罪の疑いを刀の形状から見抜き真犯人を捕らえた。
  • 康州知事に転じかけたが親賢宅教授に改まり淮西常平を提挙、将作少監として召対時に「唐虞の盛世でも巧言・讒言を恐れた」と論じ徽宗に「争臣の風あり」と評された。監察御史として崇寧備官記を作り帝に称賛され、輔臣には「文辞は翰苑に相応しく鯁諤を愛す」と語られた。沈畸と共に蘇州の獄を鞫し羈管処州となったが1年で帰り、張商英の下で吏部員外郎、遼への使者として道中病を得て致仕、蘄州知事として享年56で没した。