宋史卷三百四十七 列傳第一百六 喬執中

出自と司法・地方官の治績

  • 喬執中、字は希聖。高郵の人。太学で5年間告げずに五経を講じ、王安石が羣牧判官の頃その器を認め子弟と交わらせた。進士に及第し須城主簿として河役の暴動を鎮め、富民の橋の私利化を「橋を作らずとも官は去れる」と拒んだ。
  • 王安石が政に用い熙寧条例編修の選に加わった。湖南常平提挙、章惇の五溪討伐に際し険阻な大田・離子二峒を諭して帰順させ、遷官を辞退し父母の傍にいることを望んだ。転運判官、司農丞、開封県鎮提点として、牧地を耕す民を保護する詔を実現した。京西北路刑獄提点として黄河決壊の危機に自ら埽の上に立ち民を鼓舞し工事を成功させた。
  • 元祐初年、吏部郎中として選人(県令・録事参軍等)の致仕者への昇朝籍・封典を建言、徐王府侍講翊善を兼ね起居舍人・起居郎・権給事中に進んだ。讞獄の失出入を同罪とする案に「先王は入を重んじ出を軽んじる恤刑の理を害する」と反論した。中書舎人として邢恕の復官に「確に結んで扇動した者、復官すれば中外を疑わせる」と反対、給事中・刑部侍郎を経て紹聖初年、上官均に呂大防の起用を摘発され寳文閣待制・知鄆州となった。寛厚仁心で刑獄を扱い雪冤した者は数百人に及んだ。夢に神人から騎都尉を授かる夢を見た翌朝、談笑のうちに享年63で没した。

史論

  • 論じて曰く、宋の人材は祖宗の涵養を経て中葉にいたり盛んであった。顔復・鄭穆は醇然たる儒者として師表を務め、龔鼎臣・喬執中は始終節を守り通した、たやすく得難い人材である。章衡が山後八州の回復を国の啓釁として求めたこと、孫升が蘇軾を王安石に比したこと、韓川が張舜民の言を行いがたいと詆ったこと、席旦が蔡王への疑惑をもって彼を排斥したことは瑕であるが、瑕は瑜(美点)を掩わず他に称すべき点も多い。古くいう「才難し」とはまさにこのことであろう。