出自と徽宗年間の諫官・地方官
- 席旦、字は晉仲。河南の人。7歳で詩を作り沉黎嶺で秀句を詠み評判となった。元豊年間、進士に応じたが礼部に奏名されず、辺功を求める風潮に「戦勝は易しいが守勝は難しい、守り方を知らねば意味がない」と上書し、神宗が評価し廷試で及第させた。
- 齊州司法参軍、鄭州・河陽教授、敕令所刪定官を経て、徽宗召対で右正言に抜擢された。錢遹らが元祐皇后廃止と劉氏立太后を求めた際、旦は正面から反対し、遹の弾劾を受け吏部員外郎に左遷、太常少卿、中書舎人、給事中を歴任した。新設の殿中省の監に任じられ、御史中丞兼侍講として内侍郝隨の驕横を弾劾し都人に称えられたが、その章が先帝への非礼と誤解され吏部侍郎に転じた。
- 顯謨閣待制・知宣州、戸部侍郎、郝隨の復帰後は顯謨閣直学士・知成都府として蜀の妖言・治安への懸念に「峻猛な統治は不要、蜀人は柔順」と述べ、鉄銭の代替として過剰発行された楮券(紙幣)の弊を指摘し、帝は数百万虚券を損じても緡銭を給する提案を許した。滁州知事に降された後、蜀での治績が評価され成都に復帰。雲南大理国の入朝を唐の南詔の故事を引き拒み、威州守焦才叔の不正な誘致策も弾劾した。永興軍、龍圖閣述古殿直学士・知成都を経て樞密院の郅永壽・陽延俊の納土提案にも「朝廷は開疆の禍を悔いているはず」と拒み、長安で享年62で没した。大中大夫を追贈。中丞在任時、蔡王似の疑惑事案でその私出府を糾し議者から嘲笑もされた。子の益、字は大光、紹興初年参知政事。