出自と師表としての生涯
- 鄭穆、字は閎中。福州侯官の人。醇謹で学を好み、櫛沐を忘れるほど読書に没頭した。陳襄・陳烈・周希孟と交わり「四先生」と称された。進士に4度郷書で首位となり及第、壽安主簿、国子監直講、館閣校勘を経て太常博士に進み、南郊追封を機に集賢校理に転じた。
- 通判汾州、熙寧3年(1070年)岐王侍講、嘉王出閤にあたり諸王侍講府僚に欠員が出た際、御史陳襄の推薦に神宗が「鄭穆こそ徳行にふさわしい」と評した。館閣30年・王邸12年、公事以外では執政の門を訪れず、講説には典拠を反復摘記して劝戒とした。岐嘉二王に敬われた。
- 元豊3年(1080年)知越州となり、鑑湖の旱田課税の免除を実現した。杭州洞霄宮管理を経て、元祐初年、国子祭酒に召され、寒暑を厭わず講義を続けた。旧友張景晟の遺した白金500両を「恤孤は我が務め、金は要らぬ」と子に返した。揚王・荆王の侍講、集賢院直、荆王薨後は昌王翊善、給事中兼祭酒、寳文閣待制仍祭酒を歴任、6年(1091年)致仕を願うと給事中范祖禹が「祭酒は師資の地、老成を留めるべき」と諫めたが聞かれず、太学の学生数千人の留任嘆願も及ばなかった。公卿大夫が詩を贈り、都人が沿道で見送った。翌年、享年75で没した。子の璆は軍事推官。