出自と諫官・地方官の長い在任
- 龔鼎臣、字は輔之。鄆の須城の人。景祐元年(1034年)進士に及第し平陰主簿として瀦水の疏通で数百千頃の良田を得た。孟州司法参軍、泰寧軍節度掌書記の任にあった際、石介の死を巡り「介が遼に走ったとの讒言はありえない、一族を挙げて保証する」と述べ、太守杜衍に評価された。
- 秘書省著作佐郎・知萊蕪縣、館職試験は石介との交誼を理由に見送られたが、知濛陽県、秘書丞、知安丘県、賢良方正の試を経て太常博士に進んだ。知渠州として学校の未整備な土地に廟学を建て科挙及第者を輩出させた。編校史館書籍、都官、起居舍人、同知諫院を歴任。
- 旱害時の春宴中止、日食時の反省と賢者登用、内侍鄧保信の禁中出入りの不当、押班の年齢制限、妃嬪の追封の礼、董淑妃の諡の不当を論じ、大礼赦の指赦悪用を防ぐ制度化を求めた。開封三司の法外な断獄を中書の審査に付すよう求め、これらは仁宗によって悉く採用された。淮南の災害を体量安撫し全活させた。遼への正旦使を、祖母・兄姉が遼の淄青侵犯で殺害された経緯を理由に固辞し、以後子孫は行かずに済むよう詔された。
- 户部員外郎兼侍御史知雜事、吏禮二部郎中として宗室の試補外任・冗官冗兵の節減・薛向の姦暴(鹽・馬の不正取引)を弾劾した。英宗即位後、皇太后の早期還政と昭陵の質素な葬儀、景霊神御殿の質素を訴えた。言路にあること累年、大事に顧慮せず、その言論は優游和平で人主に受け入れられやすく多く施行された。
- 集賢殿修撰・知應天府、江寧、判太常寺兼礼儀事を経て神宗即位後、明堂議侑(合祀対象)で「厳父配天は祖ではなく父であるべき」として英宗配享を主張した。王安石の講義への賜坐に反対、知兖州として方田使者の不正な増税を是正した。西京崇福宮提挙、判太常寺、南京留守を経て、神宗が「老いても任事に堪える」と評した。曹村の黄河決壊での振済に尽力し諫議大夫、京東東路安撫使・知青州、正議大夫致仕、享年77(元祐元年〔1086年〕没)。