出自と地方官・蔡京への直言
- 孫鼛、字は叔静。銭塘の人。父直言の代に揚州江都に移った。15歳で太学に遊び蘇洵・滕甫に称された。父の任により武平尉に任じられ盗賊数十人を捕らえたが謝礼は受けなかった。越州司法参軍、知偃師縣を経て、蒲中の優人が僧に偽装し民を惑わす詐術を摘発した。
- 韓縝が長安を鎮する際に府に招かれ、去任後の後任にも留任を求められた。西川判官を5年務め、召対の後、提挙広東常平に抜擢され、徽宗初年、両浙・福建転運判官を歴任、屯田員外郎に召された。蔡京とは微賎の頃からの友人で「蔡子は貴人となるだろうが才が徳に勝らず天下の憂いとなろう」と評していた。
- 京が朝廷に復帰した際に道で会い、京が「私が天子に用いられたら助けてほしい」と語ったのに対し、鼛は「祖宗の法を謹守し正論で人主を輔け節倹を示し兵を語らなければ天下の幸い、私に何ができようか」と答えた。京は黙り込んだ。提点江東刑獄、少府少監・戸部郎中を経て、県官の支出増大を尚書曾孝広・侍郎許幾と共に論じたが当路の不興を買い両人は罷免された。
- 開封に転じ太僕卿・殿中少監、四輔設置の功で顯謨閣待制・知曹州、大中大夫として鄆州に転じた際、邑人の子が蔡京を風刺する謡を作ったことが京の怒りを買い、言者が誣告し提挙鴻慶宮に落とされ、知単州を経て致仕した。靖康2年(1127年)享年86で没し、銀青光禄大夫・諡通靖を贈られた。行義に篤く、広東時代に蘇軾の惠州謫居を援助し、二子は晁補之・黄庭堅の娘を娶り党事で家人が危惧しても顧みなかった。