宋史卷三百四十五 列傳第一百四 陳瓘

陳瓘、字は瑩中。南剣州沙縣の人。蔡卞・章惇の専横を見抜いて距離を置き、資治通鑑廃止の動きに反論するなど正論を貫いた。徽宗朝、蔡京・曽布らの姦邪を弾劾したため各地に流謫され、著書『尊堯集』で神宗実録の改竄を批判した。宣和6年、65歳で死去した。

年表(3件)

出自と章惇との対話

  • 陳瓘、字は瑩中。南剣州沙縣の人。読書を好むが進取を求めず、両親に勧められ挙に応じ甲科に及第。湖州掌書記、越州判官を歴任、太守蔡卞は瓘の賢を認めたが瓘はその心術を見抜き遠ざけようとした。卞が道人張懐素を招いた際、瓘は「怪力乱神を語らないもの」として関わりを拒み、20年後に懐素は誅殺された。
  • 明州の職田収入を官に返還した。章惇入相に際し、瓘は「船の重心の喩え」で偏った政治を戒め、司馬光を姦邪とする惇に反論し中道を説いた。惇は驚きつつも一定の理解を示し、瓘は太学博士となった。

紹聖の言論と徽宗初年

  • 蔡卞と章惇が結び資治通鑑を廃止しようとする動きに対し、瓘は神宗の序文を引いて反論した。紹述の説が盛んな中、堯舜禹の「若稽古」の意を説き、天子の孝と士大夫の孝の違いを論じ哲宗を感悦させた。執政はこれを憾み瓘を通判滄州、知衛州に出した。
  • 徽宗即位後、右正言、左司諫に進んだ。人主が言者の耳目を軽々に信じることの危険を説き、蔡卞・章惇・安惇・邢恕の罪を極論した。御史龔夬が蔡京を撃った際、瓘は紹聖以来7年で常安民・孫諤・董敦逸・陳次升・鄒浩ら5人が京と異なる意見で去ったことを挙げ、夬の罷免に反対した。
  • 蔡京弾劾の疏を上げようとした矢先、皇太后(宣仁)の摂政継続を疑う噂に絡む外戚向宗良兄弟の交結事件で瓘自身が揚州糧料院管理に出された。帝は密かに黄金100両を賜り、太后も引き止め、瓘は無為軍知事、著作郎、右司員外郎兼権給事中を歴任した。

曽布・蔡京との対立

  • 宰相曽布が近づこうと即真(正式登用)を告げた際、瓘は子正彚に「議事が合わない中でこの厚遇は官爵で釣ろうとするもの」と語り、布の過失を論じる書を用意させた。布が数人を招いて瓘を迎えた際、瓘が書を提出すると布は激怒して箕踞し詈言を放ったが、瓘は色を変えず「国事の是非には公議がある」と述べ、泰州知事に出された。
  • 崇寧年間、除名の上、袁州・㢘州・郴州に流され宣徳郎に復した。子正彚が杭州で蔡京の動揺東宮の噂を告発した際、京は先手を打って告発し、瓘も逮捕された。獄で瓘は「正彚は道聴を伝えたに過ぎず、私情で偽証することはできない、京の姦邪は既に諫省で論じた通り」と述べた。内侍黄経臣は瓘の言葉に涙し「実を言えばよい」と告げたが、正彚は失実として海に流され、瓘も通州安置となった。
  • 瓘の著書「尊堯集」は紹聖の史官が王安石の日録に基づき神宗史を改竄したことを批判するものであった。張商英が相となり書を上奏したが商英が罷免されると瓘は台州に流され、10日おきに移されるという苛烈な扱いを受け、凶人石悈が獄具を並べて脅した際、瓘は「今日の事は制旨か」と大呼して石悈を狼狽させた。
  • 台州で5年、承事郎に復するも再叙の議論が滞り、江州に居し南康、楚州へと移された。宣和6年(1124年)享年65で没した。謙和で物と争わず、易数に通じ国家の大事を予言することが多かったという。靖康初年、諫議大夫を贈られ正彚が召し出された。紹興26年(1156年)、高宗は「尊堯集」を高く評価し諡を「忠肅」とした。