出自と元祐の言論
- 鄒浩、字は志完。常州晋陵の人。進士に及第し楊州・頴昌府教授となった。呂公著・范純仁の礼遇を受け、純仁が楽語の起草を頼んだ際「翰林学士なら書けるが祭酒司業では書けない」と辞退した。
- 元祐年間、上疏で人材の不振を論じ、正色して直言する者・肅清する者・民を安んじる者がいかに少ないかを問うた。蘇頌の推薦で太常博士となったが来之邵の弾劾で罷免され、後に哲宗が右正言に抜擢した。
- 王安石の三経義を試題に用いる案に反対、陝西の辺功を賀する声に対し「勝を持続することこそ難しい」と諫めた。京東の水害に頻年の異変への警戒を促した。蹇序辰による元祐章奏の摘発が公正を欠くと批判した。
劉后立后への諫言
- 章惇の専権下、浩の言論は惇の忌避に触れ続けた。賢妃劉氏の立后に対し、浩は「仁宗が郭后を廃した際は美人も併せて斥け公平を示した。今の孟氏廃后と郭后廃后は違いがない。もし劉氏が寵を争って孟氏に罪を着せたのならば、公論はこれを疑う」と論じ、白麻(詔書)が挙げる子ありとの理由や永平・祥符の故事を検証し反駁した。
- 「祖宗の故事に基づく」との弁明に対し、浩は「陛下がその小疵を効うのを恐れる」と諫め、帝は怒らず躊躇したが、翌日章惇が浩を狂妄と弾じ、削官・覇管新州となった。蔡卞・安惇も追撃し、王回ら送別した者も処罰された。
- 徽宗即位後召還され右正言、左司諫に進み、孟子の「国人皆曰賢」の故事を引き公議と独断の均衡を説いた。起居舍人・中書舍人に進み、神宗の政を継述することを説いた。兵吏二部侍郎、宝文閣待制知江寧府、杭州・越州に転じた。
再度の流謫と晩年
- 帰朝の際、帝が立后諫言の草稿の在処を問い、浩が「焼いた」と答えると、陳瓘は「禍はここに起きよう。姦人が偽の草稿を出せば弁明できない」と危惧した。案の定、蔡京が偽疏を作り劉后が卓氏を殺しその子を奪ったとする讒言を流し、浩は再び衡州別駕に貶され(詳細は献愍太子伝にあり)、昭州に流された。
- 母張氏は謫居する浩に「国に報いて公論に恥じることがなければ憂うるところはない」と励ました。享年52で没した。高宗即位後、諫争の危言讜論を追賞し待制を復し寶文閣直学士を追贈、諡は忠。浩と交わった田晝・王回・曽誕もみな良士であった。
田晝――浩との交誼
- 田晝、字は承君。陽翟の人。枢密使況の従子。校書郎に任じ、磁州録事参軍・知西河県で善政を敷いた。鄒浩と気節を競い、浩が諫官となった際、晝は「かつて誓った志と現在は違わないか」と問い、浩は「積年信を得た機を待って発するべき」と答えた。
- 浩が孟后廃立を諫めずにいると晝は正色して「志完が黙して寒疾で死ぬなら、嶺海の外だけが人を殺すのではない」と責め、浩は感謝した。建中靖国初年、大宗正丞となり曾布の招きを拒み、淮陽軍知事となって疫病の治療にあたり、没後は土神として祀られた。
王回――浩の危機を支える
- 回、字は景深。仙遊の人。進士に及第し松滋令として人祭鬼の風習を厳しく改めた。鹿邑県知事、宗正寺簿を経て、皇后劉氏の立后問題で浩が密かに相談すると、回は「移孝為忠も母の志であろう」と勧めた。浩が南遷される際、回は資金と旅装を整え、安慰にも努めたため詔獄に引かれたが晏然とし「実に相談を受けた、欺かない」と答え除名停廃となった。追及されても子にすら家事を語らず立ち去った。徽宗即位後召還され監察御史に抜擢されたが数日で享年53で没した。
- 岑象求・王覿・賈易らが忠義を奨励するため回の子を恤するよう上奏し詔で郊社斎郎に任じられたが蔡京が相となった際に党籍に列された。
曽誕――浩への批判と弁護
- 誕、公亮の従孫。孟后の廃位に際し浩に三度書を送り復后を勧めたが浩は応えず、浩が南遷された後、誕は「玉山主人対客問」を著し浩を評した。「浩は知幾(機を知る)の士とは言えないが、この時代に浩を非難すれば天下に全き人はいない」と述べ、易の知幾・知進退存亡の教えを引き、孟后廃立当時の劉氏立后への懸念が長く実現しなかった経緯を分析し、浩がもし力を尽くして復后を諫め聞かれなくても義は保たれたはずと論じた。誕は仕官では顕達しなかった。