宋史卷三百四十三 列傳第一百二 陸佃

出自と王安石の下での学問

陸佃、字は農師。越州山陰の人。貧しく苦学し、金陵で王安石に経学を学んだ。熙寧3年、科挙応試のため上京、安石に新法の運用実態(青苗法が本意に反し民を騒がせている実態)を率直に指摘し、安石を驚かせた。外部の批判が「拒諫」との評判であることも伝えたが、安石は「邪説は聴くに値しない」と応じ、佃は「それこそが人の批判を招く」と反論した。私家の高利貸しの実態についても情報を提供している。禮部試で首席、廷試では新奇な策題にも従容として答え甲科に及第。蔡州推官、鄆州教授を経て国子監直講。安石は佃が自分に付随しないことを理由に政治に関与させず、経術のみを任せた。

中央要職と『実録』編纂

王雱の門下に群がる者の中で師礼をとる者もいたが、佃は変わらぬ態度を貫いた。徐説文(字書)の校訂に携わり、神宗の下問に応じて礼制(大喪の襲袞など)を的確に答え、郊廟礼文官・崇政殿説書に任じられた。周官の進講で神宗の称賛を受け、集賢校理、中書舎人、給事中。哲宗即位後、太廟の牙盤食(祭祀の器の様式)を巡る議論を的確に処理した。安石の死に際し、諸生とともに供仏し哭祭を行い、向背のなさを称賛された。吏部侍郎、礼部侍郎として神宗実録を修めたが、范祖禹・黄庭堅と大要(安石の評価)を巡って論争し「佞史」と批判された。権禮部尚書。鄭雍の弾劾で龍図閣待制・頴州知事に落とされたが、欧陽脩の遺徳を祀る祠堂を建てた。江寧府知事として殺人事件の冤罪(父の訴えを聞いて審理し直し3人の命を救った)を晴らした。紹聖初年、実録編纂の罪で秦州・海州知事に落とされたが、朝論はその情状を酌み集賢殿修撰・蔡州知事に復した。

徽宗期の要職と晩年

徽宗即位後、礼部侍郎として「正始の道は朝廷にあり、近時の士大夫は競進・訐人を風とする」と戒め、元祐・紹聖双方の一方的な評価を退けて公正な議論を求める上疏を行った。哲宗実録の修撰、吏部尚書、遼への使者として、遼主洪基の喪に接した際の弔礼を巡り機知に富んだ応答をした。尚書右丞、南郊の大裘の飾りを金から銀に改めるよう提言し徽宗に称賛された。北郊親祀を巡る議論では元豊の合祭を非とする自らの過去の主張を貫き李清臣を止めさせた。趙挺之の罰金処分に反対し、諫官陳瓘の上書を巡る曽布の怒りには「深く怒れば瓘の名を高めるだけ」と説いた。曽布と結んで元祐人材の登用を図り、「不次の用人」「急激な変更の弊」を説く持論を貫いた。左丞。吕希純・劉安世の急速な復職への反対論に対しては窮治を戒め、詔を発して朝堂に諭したが、これが逆に「党籍に名がある佃が自己保身から窮治を避けた」との讒言を招き、中大夫・毫州知事に落とされ、数月で61歳で没した。資政殿学士を追復された。著書242巻、『埤雅』『礼象』『春秋後伝』などが世に伝わる。