宋史卷三百四十三 列傳第一百二 林希

出自と紹聖の紹述への加担

林希、字は子中。福州の人。進士及第、涇県主簿、館閣校勘、集賢校理、太常礼院同知。皇后の父の喪の服喪基準を巡る議論、高麗への使者行を渋って神宗の怒りを買い、杭州の楼店務監となる不遇の時期があった。秀州通判、太常礼院知事、著作佐郎、礼部郎中を経て両朝宝訓の編纂に携わった。元祐年間、秘書少監、起居舎人、起居郎、中書舎人。行状が浮偽と批判され地方に出され、蘇州・宣州・湖州・潤州・杭州・毫州の知事を歴任、天章閣待制。

哲宗親政期の変節

紹聖初年、章惇が「元祐の司馬光は蘇軾に制詞を書かせて天下を動かした、その術を使いたい」として林希を登用し、執政の地位まで約束した。希も長年の不遇から「甘んじて姦悪を成そう」と応じ、中書舎人・神宗実録修撰・侍読を兼ねた。哲宗の問いに「宣光殿」の名の由来(石勒の殿名)を答えるなど博識を示したが、紹述の名のもとに元祐の群臣(司馬光・呂公著・呂大防・劉摯・蘇軾・蘇轍ら数十人)を糾弾する制詞を起草し、極めて醜悪な誹謗の言辞(宣仁后を「老姦擅国」と暗に指す表現)まで用いた。ある日、制詞を書き終えて筆を投げ「名節を壊してしまった」と嘆いたという。礼部・吏部尚書、翰林学士、同知樞密院。章惇は曽布が樞密院に手を伸ばすのを警戒し希を副として監視させたが、希は布に誘われ、逆に惇から見放されることを恐れて惇に背いた。邢恕の弾劾を機に章惇は希を退け、毫州・杭州知事に落とされた。端明殿学士・太原府知事。徽宗即位後、大名知事として辺境政策三策を上疏したが、詞命の醜悪さを理由に楊州・舒州に左遷され、67歳で没した。資政殿学士、諡「文節」を追贈された。

附伝:林旦

林希の弟。進士及第、著作佐郎・淮南常平主管、太子中允、監察御史裏行。李定事件を論じて罷免されるが、門下封駁の職を経て再登用され、太常博士、工部考功員外郎。元祐元年、殿中侍御史として、真の求言の道を説き「前年の求言の詔は実は言を拒む内容で、蔡確・章惇が発端」と論じ、恵卿・鄧綰らの処罰の甘さを批判、王中正・石得一の縁者の処分強化、崔台符・賈種民の舞文深酷の罪を弾劾した。淮南転運副使、右司郎中、秘書少監、太僕卿、河東転運使を歴任。子の膚は元符年間の上書事件で党籍に連座した。