宋史卷三百四十三 列傳第一百二 許將
出自と対契丹外交
許将、字は沖元。福州閩の人。進士第一(状元)。欧陽脩に「沂公(王曾)に似た器」と評された。館職試験を辞退し「まず未読の書を読みたい」と願う謙虚さを示した。神宗に召され集賢校理、太常礼院同知、中書条例編修を歴任し異例の抜擢を重ねた。契丹が20万の兵を代州境に集結させ代地の割譲を求めた際、朝廷を代表して契丹に赴き、射術で相手を圧倒し(「南朝の状元」と評判)、契丹の使者蕭禧の詰問にも即座に応答して交渉を有利に導いた。
中央要職と紹聖・元符期
知審官西院、翰林学士承旨、権知開封府。虞蕃訟事件に連座して蘄州知事に落とされたが、龍図閣待制として秦州・楊州・鄆州知事を歴任。上元節の逮捕者を全て釈放して自新の機会を与え、犯罪が絶えたため「王沂公以来56年ぶりの獄空」と父老が驚嘆した。兵部侍郎として、兵制の要諦(禁兵・廂兵・民兵、養馬・市馬・牧馬、繕作・給用の八事)を体系的に論じた。元祐年間、成都府知事、翰林学士、尚書右丞。西方用兵に関する政策の継続性を巡り、王文郁・姚兕の登用や張利一・張守約の再任に密かに反対を唱えたことが露見し、資政殿学士・定州知事に落とされた。黄河の東流・北流問題では、梁村・内黄両口を活用し状況に応じて調整する折衷案を提示した。紹聖初年、吏部尚書として北郊親祀を献策、尚書左丞・中書侍郎。司馬光の墓を暴くべきかを問われた際「墓を暴くのは徳を損なう」と反対し、大臣誅戮の故事は宋の美徳として避けられてきたと説き、哲宗はこれを容れた。夏国への対処では涇原方面の重要性から章楶の登用を進言し、楶は功を挙げた。崇寧元年、門下侍郎、鄯・廓州の平定に功を挙げ特進に転じた。晩年、御史中丞朱諤に節操の一貫性のなさ(元祐・紹聖・建中の各政変で立場を変えた)を批判され、資政殿大学士・河南府知事、頴昌府・大名を経て観文殿学士・奉国軍節度使。政和初年、75歳で没し、開府儀同三司、諡「文定」。子の份は龍図閣学士。