宋史卷三百四十二 列傳第一百一 王巖叟

出自と初期の官歴

王巖叟、字は彦霖。大名清平の人。幼くして文字に通じ、明経科創設に応じて18歳で郷挙・省試・廷対すべて首位を得た。欒城簿、涇州推官を経て弟の喪により官を辞した。熙寧年間、韓琦に招かれ国子監・安撫司機宜文字を管勾し、韓絳の代でも留任を求められたが「韓琦の客であり他門に仕えない」と辞退。定州安喜県知事として不正な訟師を市中で処罰し、呂公著から「古の良吏」と称された。

哲宗初期の諫言

哲宗即位後、劉摯の推薦で監察御史。役銭課税の重さを批判し差役法への復帰を求め、河北の榷塩法の弊害を指摘、江西の塩害の緊急対応を求めた。民の疾苦を求める詔が実行を伴わなければ天下の信を失うと諫めた。李定の不孝を弾劾、蔡確の定策自居や章惇の讒謗を糾弾し両者を退けさせた。左司諫・権給事中として、執政人事の不当な任命を封還する上疏を8回行った。三省の胥吏の過剰な俸給を戒め、10条の抑制策を定めさせた。諫官の定員不足を指摘し、正人の補充を求めた。水災の振貸基準の緩和を求めた。

経筵と辺境問題

起居舎人として侍講し、節儉の重要性を説いた。哲宗が「三徳(他に何かあるか)」と問うた際、正直・剛徳・柔徳の三徳を詳論する上疏を行い、君主の学問は「専」と「勤」を要すと説いた。契丹の賀正旦使耶律寛の要求(元会儀の閲覧)を退けた。湖北諸蛮の擾乱に対しては荊南の唐義問に恩信重視の方針を檄文で伝え鎮撫させた。西夏の使者往来の頻繁さに対処法を献策し実効を上げた。質孤・勝如の二堡を巡る議論では、蘇轍の「与うべし」との意見に対し「要害の地を軽々に放棄すべきでない」と反対し、太皇太后もこれを支持して議論は止んだ。西夏の10万規模の侵攻に対する熙河帥范育の対応を支持し、定遠城の築城を戸部員外郎穆衍に指揮させ完成させた。中書舎人として滕甫の帥臣人事の恣意的な変更に反対する封還を行った。

開封府と晩年

権知開封府として、府内の訴訟処理体制を分治法に改め、都城の「大房」(盗賊の巣窟)を摘発し根絶した。供備庫使曹続の負債問題を機知で解決した逸話がある。慈聖后の一族と関わる訴訟では孝治の観点から寛大な処置を求め、内侍任絢の処罰を軽減させた。多額の未収税を等級別の催徴法で整理する法を定めさせた。元祐6年、樞密直学士・簽書院事。太皇太后への謝辞で「聴政以来納諫従善で天下は安静」と述べ、哲宗には邪正の弁別の重要性を説いた。「君子小人参用の説」を戒める上疏も行った。上清儲祥宮の完成に際し土木を戒め、赦令の乱発が治世に益さないと論じた。哲宗の后選びでは礼経の問名の慣例を挙げ、庶出過房の狄氏の選定を退けさせた。皇后の内助の重要性を説いた。劉摯・蘇転の辞意を止めるよう進言したが、摯が鄭雍に弾劾され結局失脚した。端明殿学士・鄭州知事、河陽知事を経て、明年51歳で没した。左正議大夫を贈られたが紹聖初年に雷州別駕を追貶された。司馬光は「彼の諫言は聞くだけで身の毛がよだつが、いつも動じず言い続けた」と評した。文章は制誥の体を極め、『易』『詩』『春秋伝』が世に伝わる。