宋史卷三百四十一 列傳第一百 孫固

出自と地方官時代

孫固、字は和父。鄭州管城の人。9歳で論語を読み「私はこれを実践できる」と述べ、石介に公輔の器と期待された。進士及第し磁州司戸参軍、貝州平定戦で文彦博に「脅従は罪せず」の原則を説き、首謀者のみを誅した。霍邑令、秘書丞、審刑詳議官を歴任。韓琦に見出され編修中書諸房文字となる。治平年間、頴王(後の神宗)の侍講、皇太子の侍読を経て、神宗即位後は工部郎中・天章閣待制・通進銀台司知事となった。种諤の綏州奪取に対し、名分なき挙兵を戒めた。

王安石新法への反対

神宗に王安石の宰相適任性を問われ「文行は高いが度量が狭く、宰相には吕公著・司馬光・韓維が適任」と繰り返し答えた。青苗法の不便を極論し韓琦の上疏に神宗も動揺したが、結局安石の主導で施行された。孔文仲の対策文が忤逆とされ罷免された事件、胡宗愈・蘇頌・陳薦・李定を巡る人事にも異議を唱えた。始祖を巡る太廟の議論では、僖祖ではなく太祖を始祖とし、僖祖は別廟に祀るべきとする説を展開し、韓琦から「この議論は不朽の功績」と称賛された。龍図閣直学士・真定府知事として、契丹人の越境耕作を折衝で解決し疆地200里を回復した。

対外・軍事政策への慎重論

熙寧末年、樞密直学士・開封府知事、元豊初年、同知樞密院事。安南の順州は瘴癘の地として放棄と2万戸の内徙を進言。西夏の内紛に乗じた侵攻論には終始反対し「兵を挙げれば禍を解くのは容易ではない」と説いた。李憲を将帥に用いる案には「宦官に大事を任せれば士大夫が従わない」と諫めた。五路進討の失敗を予見し、大帥不在での出兵の危険を説いたが容れられず、案の定敗れた。神宗は後に「孫固の言を迂遠と思ったが今悔いても及ばない」と述懐した。大中大夫・樞密副使、知院事を経て、病により観文殿学士・河陽知事に退いた。

元祐期と晩年

哲宗即位後、正議大夫・河南府知事、鄭州知事。元祐2年、侍読、門下侍郎。高齢を理由に辞意を示したが、太皇太后は「先帝の旧臣として新帝の輔導を頼む」と慰留した。知樞密院事、右光禄大夫。元祐5年、75歳で没し、開府儀同三司、諡「温靖」を贈られた。人と長く付き合うほど信頼を得る誠実な性格で、司馬光は陳州で長く天下の大事を語り合った。傅堯俞は墓誌に「司馬公の清節、孫公の淳徳」と称えた。紹聖年間、追奪された贈官は政和年間に復された。