宋史卷三百三十 列傳第八十九 王吉甫

出自と経歴

  • 字は邦憲。同州の人。明経科に及第し、法律に練達し断刑試験に及第、大理評事となる。丞・正・刑部員外郎・大理少卿を歴任。舒亶が官燭を私用したとして自宅に招き、執政は自盗の罪に問おうとしたが、王吉甫は不可と主張。執政は怒って他所に獄を移したが、王吉甫は自ら弁明を行い、舒亶は結局飲食の罪だけで処断され燭の件は取り上げられなかった。
  • 南郊の儀式で幔城の役夫が工事完了を急ぐあまり、督役者から「これではまるで白露屋(ぼろ屋)だ」と言われたことに卒が訴え、吏はこれを不敬な言辞として死罪相当と論じたが、王吉甫は「呪詛の言葉ではなく死罪に当たらない」と主張し、皇帝に直談判した。神宗は「まさか白露屋の件で来たのか」と怒ったが、王吉甫は落ち着いて丁寧に説明し動じず、皇帝は怒りを解いてその者を釈放した。
  • 蘇軾が南方に左遷される道中、郡守が館に招いて接待した件が問題視され、正使が詔を受けて糾弾しようとした際、王吉甫は笞刑相当と主張。宰相の章惇は不満だったが、王吉甫は「法がこうである以上、罪を加重するのは難しい」と述べ、結局笞刑となった。太倉の火災で守備者十数人を処刑する議論に対しても争い、皆死を免れさせた。その判断は寛平を旨とし、概ねこの調子であった。
  • 斉州知事を願い出て、梓州の知事にも。梓州は東川で最大の藩鎮であり戸口も多く、転運使が折配(現物税の割増)を増やして余剰を得ようとした際、王吉甫は僚属に「民力は既に尽きている、一度増やせば後で減らせない。私は使者の怒りを買っても国のために怨みを集め民のために禍の種を残すことはできない」と述べ、これを退けた。
  • 梓州路刑獄提点・京畿刑獄・開封少尹を経て、同州・邢州・漢州の知事を歴任、中大夫として70歳で没した。吏事に老練で廉潔だったが、ひたすら法の運用にこだわり、飾り気に乏しいことを士人に惜しまれた。

史論

宋は科挙で律令も併せて学ばせたため、儒者は経術で吏事を潤色し、その官職を全うすることができた。恵政を民に及ぼしながらも登州の婦人の獄で君子はこれを失刑(誤った量刑)と評した。盧士宗・銭象先はいずれも経学に基づいて講義し、刑官としては法を平恕に運用した点でふさわしかった。韓璹は吏事に絶倫で民はその徳を慕い、杜純は微官にありながら清節を著し、杜紘は必ず経義に基づいて獄を論じその義風は親しみ深く、杜常はかつて危機に際して自ら護りに立ち、謝麟は猺獠を平定し、王宗望は万州の変を鎮めた。いずれも至難の事を談笑のうちに処理した。王吉甫はひたすら法を用いて廉潔を貫き、称するに値する人物である。