宋史卷三百三十 列傳第八十九 王宗望

出自と経歴

  • 字は磻叟。光州固始の人。蔭により累進して夔州路転運副使に。哲宗即位に伴う恩賞が万州で十日以上支給されず、庖卒の朱明が民衆の怒りを利用して白昼府宅に押し入り太守の側近を傷つけ守が驚いて逃げ他の兵も動揺し反乱の兆しがあったが、王宗望は変事を聞いて夔州から急行し、まず恩賞を配布させた上で朱明を処刑し見せしめとした。守が救助しなかった責任を追及して自ら弾劾したため、朝廷はこれを評価した。
  • 倉部郎中・司農少卿・江淮発運使を歴任。楚州の淮に沿う漣州は風波が険しく舟が多く溺れていたため、議者は支氏渠を開いて水を運河に引き込む案を長く決められずにいたが、王宗望はこれを完成させ公私ともに利益を得た。
  • 呉安持の後を継いで都水使者となり、黄河の東北流化の問題で水官の意見が分かれる中、王宗望は黄河を回復させるため金堤七十里を築くべきと主張し、緡銭百万を求めて詔許を得た。右正言の張商英はこれを誇大な虚言と批判したが、王宗望は成績を上奏して秩を三等進め、直龍図閣・河北都転運使を加えられ、工部侍郎に抜擢、集賢殿修撰・鄆州知事となり79歳で没した。
  • 元符年間、黄河を東流させた事業について「元祐(旧法派)に迎合した」として調査され、恩典を取り消された。