出自と経歴
- 字は正国。河南の人。父師徳の任により淮南転運副使となる。山陽県令鄭昉の巨額の贓罪を糾弾して嶺外に流罪とし、貪吏たちは風を望んで逃げ去った。
- 京西東転運使に転じる。鄆州にいた王逵は官吏の弱点を握って賄賂を強要していたが、張景憲はその罪状を上奏し、宿州に配流させた。
- 熙寧初年、戸部副使となる。韓絳が撫寧・囉兀の両城を築いたとき、皇帝の命でこれを視察した張景憲は、到着前から「城は守れない」と述べていた。まもなく撫寧城は陥落。延安に至ってさらに、「囉兀は孤立した城で井戸を掘っても水が出ず、守りようがない。行軍中に見た民の疲弊は一様ならず、無駄な労役を止め無用の城を廃するべきだ」と上奏。辺将には堅く守備策を命じ、蕃族を金帛や官爵で招くことに対しては、狡猾な羌人が二心を抱いて内応する恐れがあるため速やかに止めるべきだと述べた。
- 陝西転運司が半年以内に民の銭をすべて交子に交換する法を議した際、張景憲は「この法は蜀では通用するが、陝西で施行すれば民の生活が立ち行かなくなる」と反対し、結局実施されなかった。
- 集賢殿修撰を加えられ河東都転運使に。河東を二路に分割する議論に対し「本道は土地の肥痩が入り混じり州県の貧富も異なるため、分割すれば有無を通じ合わせることができなくなり不便」と反対し、議論は取りやめとなった。
- 瀛州知事に転じ、不作続きで民が官債を負っている中、豊作の年になったからと督促して一括返済させれば禍が凶年より甚だしくなると上奏し、寛大な措置を求めて認められた。
- 元豊初年、河陽知事のとき、西南蛮の討伐が議されており、赴任の挨拶で「賊は辺吏に挑発されているだけで、その巣は険阻な地にあり、遠征すれば兵站が続かず我が軍は苦境に陥る」と諫めた。皇帝は「その通りだが朝廷にはやむを得ない事情がある」と述べた。翌年同州に転じ、大中大夫として77歳で没した。
- 仁宗朝で部使者を務めていた頃は行政が緩やかであったが張景憲は独り厳しく取り締まり、熙寧以降は逆に行政が厳格化する中で寛容な処置をとった。新法施行の時期にも一人として弾劾せず、政務外では権力者の門を訪れず、自らの信念を曲げず他人の評価をあまり気にしなかった。母の死に際し一夜にして髪が真っ白になったと、世に称された。