宋史卷三百二十九 列傳第八十八 王子韶

出自と経歴

  • 字は聖美。太原の人。進士に及第したが年が若く選を待ち、太学で学ぶうちようやく調任された。王安石が条例司に引き入れ監察御史裏行に抜擢、明州の視察に赴いた際、安石が祖無択を憎んでいたため子韶はその意に迎合し無択の杭州在任時代の事案を京師から呼び戻して糾弾、審理を張載に委ねさせ無択を廃させた。中丞の呂公著らが新法を論じ一台がすべて罷免された際、子韶は知上元県に出され湖南転運判官に遷った。御史の張商英に父母を葬らなかった罪を弾劾され知高郵県に貶されたが、司農丞・提挙両浙常平を経て召対し神宗と字学を論じ資善堂に留まって説文を修定、官制施行後は礼部員外郎となり、入省の期限に遅れて庫部に改まった。
  • 元祐中、吏部郎中・衛尉少卿を歴任し太常に遷る。諫官の劉安世は「煕寧初め、士大夫に『十鑽』の目があり、子韶は『衙内鑽』と呼ばれ要人の子弟に取り入る様が刀鑽の鋭さに例えられた、また祖無択を深く陥れたことは縉紳の共に卑しむところで、礼楽の地を汚すべきでない」と論じ衛尉卿に改められた。安世はさらに「七寺の正卿は少卿より班位が低いのに、弾劾を理由に超遷させるのは僥倖を招く」と論じ、知滄州に出された。祕書少監に入り遼の使者の接伴を務めたが、軍吏が酒に酔って子韶とその子を傷つけた事件があり、また知済州に出た。先烈の追復を建言して後法とすることを求め、太常少卿として召され祕書監に進み集賢殿修撰・知明州を拝して卒した。崇寧2年(1103年)子の相が元祐中の上疏の草稿を朝廷に献じ、顯謨閣待制を贈られた。