出自と経歴
- 字は楽道。京兆万年の人。進士に及第し太常丞に至って父の喪に服した。陶は登朝後に郊祀の恩が父に及ばなかったことを憂い、昇進の官位を返上し父への追贈を願い出て許された。喪が明けると太子中允に除せられた。嘉祐初め監察御史裏行となる。衛卒が延福宮に入り盗を働いた事件で有司が処分を軽減しようとした際、陶は「宮禁の厳粛さは外間の比とは違う」と述べこの措置は流罪に処された。中貴人が煉丹の道士を禁廷に導き入れた事件では「漢唐の方士が化金・延年を称して人主を惑わしいずれも誅されている、追放すべきだ」と述べた。陳升之が枢密副使になろうとした際その不当を論じ、升之が去ると陶も知衛州に出され、蔡州に転じた。
- 翌年、右正言として召され「私を含む4人が同時に郡に補されたのに独り2人だけが召還された」と述べ唐介・呂誨らも共に召し戻された。英宗が宗正寺の知事となって1年経っても職務に就かなかった際、陶は上疏し「至和中、聖躬(仁宗)が不予となって以来、天下は寄る辺なく交章して早く宗室の親賢を選び儲嗣を建てるよう求めてきた、これは不忠孝な者や姦利を図る者ばかりが言い出したことではなく、至誠から出て宗廟社稷の無窮の大計を思ってのことだ、陛下は民の望みに従い人心を安んじるべく親しく徳音を発してこの挙を行われ、中外の揺れる心は一旦定まったのに、その後の遅延で憂疑が生じ、あるいは事は嬪御・宦侍の姑息な言によるものと巷説される、婦人・近幸がどうして遠謀を識ろうか、海内の民は陛下が始め天意民心に従い命じたのに、後で左右の姑息な言を聞いて疑ったと思うだろう、これでは遠近の姦邪に隙を窺わせることになりかねない」と論じた。仁宗に対問すると「今は別に名目を与えるべきだ」と述べ、まもなく韓琦の決策で立太子となった。
- 英宗即位後、直史館・修起居注・皇子位伴読・淮陽頴王府翊善を加えられ知制誥に進み龍図閣学士・知永興軍となり太子詹事に召された。神宗即位後、樞密直学士に遷り御史中丞を拝す。郭逵が簽書樞密として陝西を宣撫していた際、還都を命じられたことに陶は「韓琦が逵を二府に置いたのは太祖の故事を用いて出師で人主を制するためだ、琦は必ず姦言を弄して聖徳を惑わすだろう、逵を罷めて渭州に出すべきだ」と論じたが、帝は「逵は先帝の用いた人物であり無罪で黜ければ先帝の用人の誤りを非難することになる、できない」と答えた。陶は思いを遂げられず、琦が文徳常朝の班に押さないことを理由に弾劾した。陶はもと琦に見出され急速に抜擢されていたが、帝が即位当初で執政の専断を快く思わず、必ず大臣を入れ替えると読み、重位を得ようと琦を仇のように攻撃した。琦は門を閉じて処分を待ち、帝は陶を翰林学士に移し、まもなく知陳州に出され、三司使の権を得たが呂公著が「反覆常なく近づけるべきでない」と論じ、侍読学士・知蔡州、河南・許・汝・陳の三州を歴任、東宮旧臣の縁で観文殿学士を加えられたが帝は終生その人物を薄く見て用いなかった。元豊3年(1080年)61歳で卒し吏部尚書を贈られ諡は文恪。
- 陶は貧しかった頃、京師で寓居し小学を教えていた。友人の姜愚は気概があり施しを好み、ある大雪の日、陶が母を養い寒饑にあると案じ、鋤を担いで雪を踏み分け20里を訪ね、陶母子が寒さに凍え竈の煙も上がらぬのを見て、着ていた錦裘を質に入れて酒肉・薪炭を買い暖を取らせ食事を施し、さらに数百千銭を捐じて陶の婚礼の費用に充てた。陶が貴顕となり洛陽の尹となった後、愚は老いて盲目となり衛州新郷から陶を訪ねたが、陶は旧誼を懐かしむこともなく冷淡に対応し、酒だけを出して終わらせた。愚は大いに落胆して帰り病死し、これを聞いた人々は陶の人柄をますます軽んじた。