出自と経歴(府州包囲戦での失態)
- 字は世基。河南洛陽の人。父の賛元はかつて作坊使として曹光実に従い李継遷を襲いその母妻を捕らえ、崇儀使・武州刺史に抜擢された。賛元の死後、真宗はその功を追賞し徳輿を三班奉職に録用、右班殿直・涇原路走馬承受に遷り閤門祗候に抜擢された。黄河が陽武埽を齧食した際、詔により徳輿が完築を命じられ、開封府西路都廵検を歴任、榷貨務を勾当しつつ埽事も兼領、開封府等六州の黄河堤岸を廵護することとなった。
- 天聖中、夏州へ使いし趙徳明に冬服を賜った際、夏人が「前の康将軍で霊武で戦った者はあなたの先代ではないか」と問い、徳輿は復讐を恐れ「違う」と偽って答えた。汴口の勾当に戻り西頭供奉官に改まった。枢密使曹利用の推薦で内殿崇班・河陰兵馬都監に遷り、汴河沿いに斗門を築いて水位を調節、大雨で汴水が溢れそうになった際、京西から水を引いて護龍河に導く策を献じ氾濫を防いだ。原州・慶州・益州路兵馬鈐轄を歴任、昭州刺史を領し并代兵馬鈐轄・管勾麟府路軍馬事に転じた。
- 蕃部の乜羅という殿侍が錦衣と駅料を求めたが徳輿がこれを与えなかったため乜羅は怨言を漏らし、後に乜羅が賊と通じ戦場で漢人に矢を向けるとの讒言があった。乜羅は身の潔白を証せず賊に降ろうと謀った。指揮の張岊がこれを聞き乜羅を招いて酒を酌み交わすと、乜羅は泣いて「私が賊に附こうとするのは死を逃れるためだけだ」と語った。岊はこれを徳輿に報告し「乜羅の叛意は本物だ、殺さねばならぬ」と進言したが、元昊がしきりに侵攻していた時期でもあり、徳輿は「今、蕃部を殺すべき時か」と聞き入れなかった。岊は「叛くのは乜羅だけで衆の望むところではない、私が招いて酒を飲ませ崖谷に突き落とし落馬死と偽装すれば、漢人が殺したとは知られまい」と提案したが、徳輿は決断を渋り、側近に相談したところ岊を嫌う者が中傷したため実行できなかった。
- 知府州の折継閔が賊の来襲を告げても徳輿は「あなたが乜羅を招かなかったから、賊の接近を知ったのだ」と怒った。果たして賊は乜羅を道案内として河川を伝い府州を襲撃、蕃漢の民が城内に逃げ込もうとしたが徳輿は門を閉じて入れず、降伏する者や賊に殺される者が数え切れなかった。賊が府州を包囲すると、徳輿は馬歩軍副総管の王元・兵馬鈐轄の楊懐忠と共に兵を動かさず戦わず、ただ転運司に軍食の調達を求める文書を送るだけだった。転運副使の文彦博が民を集め物資を運んで境まで届けたが、徳輿らはついに出撃しなかった。豊州が陥落した際も、わずかに州城から数里出て屯した後3日で戻り、民は寇が再び来たと思い携えた物を棄てて城郭に逃げ込んだ。しかし朝廷にはこの実態が十分伝わらず、徳輿は不出戦の罪のみで東染院使・河陽兵馬都監に降格された。
- まもなく昭州刺史・知保州に復し、真定府定州路総管に転じ、代・石・儀三州、太名府路鈐轄を歴任、金堤を提挙し西上閤門使に累進した。至和中、黄河が小呉埽を決し東堤の頓丘口を破った際、水を避けて堤上に逃げた住民が水に追われて逃げ場を失う中、徳輿は巨船50艘で順流し人々を救い、溺死を免れさせた功で果州団練使・知冀州を領し、趙州に転じた。冀州の卒が上元の夜に庫兵を劫し反乱を企てているとの密告があった際、徳輿は賓客と宴を続けながら平然を装い、密かに人を遣って首謀者を捕らえ誅殺した。陳州鈐轄に転じ卒した。