宋史卷三百二十六 列傳第八十五 張君平

出自と経歴

  • 字は士衡。磁州滏陽の人。父の承訓が契丹との戦いで死んだ功により三班差使殿侍・黔州指揮使に補せられ、獠兵の侵寇をたびたび撃破した功で奉職に遷り、駐泊監押、容白等州廵検を歴任、捕賊の功で右班殿直に遷った。謝徳権の推薦で河陰窖務を務め、閤門祗候・管勾汴口に抜擢され、「毎年汴口を開くには地を選ぶべきで、良地を得れば水流が速く砂の堆積もなく年に百余万の労力を省ける」と建言、沿河の県に楡柳を植えさせ課績とすること、汴河に流れる屍を埋葬することも進言し、いずれも採用された。
  • 天聖初め、滑州の決河を塞ぐ議で君平が河事に通じていたため左侍禁・簽書滑州事兼修河都監に任じられ、河が未だ塞がらぬうちに開封府界県鎮の同提点公事に召され、滑州の堤防護持の功で内殿崇班に特進した。京師がたびたび水害に遭うのを憂い、近畿諸州の古い溝洫を疏鑿するよう建言、次第に整備が進み、畿内・近畿の州県長吏が溝洫河道を兼管するよう詔された。畿から泗州までの道に群盗が多いため、両駅に使臣を増置して専ら捕盗にあたらせ夾河廵検を廃したところ、旅人の被害がなくなった。
  • 再び滑州修河都監となり供備庫副使に遷り、河が治まると西作坊使に改まり鈐轄に遷って卒した。君平は吏才に優れ特に水利に明るく、朝廷は河の塞開のたびに利害を尋ねた。河が治まったころに没し、識者はこれを惜しんだ。子3人が録用され、子の鞏は皇祐中に尚書虞部員外郎として河陰発運判官・管勾汴口を務め、父の職を継いだ。

史論(第一段)

孔子は暴虎馮河(無謀な勇)で死しても悔いない者には与しないと言い、老子は「佳兵は不祥」と説いた。景泰らは書生から起こり、あるいは行伍から奮い立ち、あるいは亡命から身を起こした者で、必ずしも将帥の器を備えていたわけではない。泰はわずかな兵力で西夏の鋭鋒を挫き、しばしば持重をもって敵を制した。蒋偕・張忠は軽率で自らを恃みすぎ、烏合の賊に命を落とした。郭恩は黄道元の圧力に屈せず虎口に身を投じ、義を守って屈しなかった点はなお尊ぶに足る。岊の驍勇はまさに事に臨んで懼れぬ者であった。君平の死戦の子は水利に明るく吏才で名を成し、これもまた変化に善く応じたと言えよう。