出自と経歴
- 字は子雲。府州府谷の人。財力により牙将となり、胆略に富み騎射に長じた。天聖中、西夏観察使の阿遇の子が投降してきたが、阿遇が麟州を侵して辺戸を虜にし、その子の返還と引き換えに虜を返す約束をした。麟州がその子を返すと阿遇は約を破り、安撫使が岊を派遣して詰問させた。岊は単身阿遇の帳中に入り理を説き、阿遇は言い負かされ岊を留めて共に食事をさせた。阿遇が刀で大きな肉塊を刺して岊に食わせようとしても平然と食べ、弓に矢をつがえて腹に向けても顔色を変えなかったため、阿遇は岊の背を撫でて「真の男子だ」と称えた。翌日の狩りでも岊は連射で兎2匹を仕留め、阿遇はいたく感服し馬・橐駝をことごとく返した。
- 州将は岊を来遠砦主に補し、岊は偽の首領を自ら殺しその甲馬を奪った。時に18歳、名は軍中に轟いた。元昊が鄜延を犯した際、岊は都教練使として忻継閔に従い浪黄・党兒両族を破り数十人を射殺、偽軍主の敖保を斬った功で下班殿侍三班差使に補せられた。敵騎が猛威を振るう中、軍衣輸送の使者が麟州で立ち往生した際、康徳輿の命で岊は50騎を率いて護送、敵と遭遇し矢が両頬を貫いたが矢を抜いて奮戦、馬12匹を奪って帰った。
- 賊が府州を急襲した際、城西南隅の庫の下に賊が登りかけ「城が破れた」と騒がれる中、岊は城壁の上から大呼して賊を撃退、右目の下に矢を受け身に3創を負いながら昼夜城を守り、また死士を率いて関を開き城の人々が河へ水を汲みに行けるようにし、包囲が解けた。功により右班殿直に遷った。賊が道路で運搬を邀撃するため岊は麟府州道路廵検となり、深柏堰で敵数千に遭遇し分兵して追撃、首級百余を斬り兵械馬牛数百を奪った。秋の収穫を恐れて刈り取れずにいた近郊の民田を守るため、張亢に働きかけ歩卒9百を得てこれを護り、龍門川で賊を大破した。麟州への糧道を通し柏子砦で賊を破り、左班殿直に改まった。
- 内侍宋永誠が詔を伝えるため砦下に赴いた際、岊が護衛し三松嶺で賊に遭遇、精騎の挑戦を受け矢が腕に刺さっても馬を躍らせ左右に馳射、諸将が勝ちに乗じて進み賊は潰走、特に西頭供奉官に改まり内殿崇班に累進した。賊が豊州を破った際、諸将と一日に数戦し容州刺史耶布を破り貴叅砦の守りに移り、俘獲は万を数え礼賓副使に遷った。明鎬が河東にあった時、岢嵐軍が雲朔路を扼す要地であるとして岊を麟府路駐泊都監兼沿辺都廵検使とし岢嵐に駐屯させた。
- 張亢が並砦の堡障を修めるにあたり、当初は安豊砦を石台神に置く案だったが、岊は要害の地ではないとして生地骨堆に移すよう主張、周囲は「勝手に砦地を変えてよいのか」と諫めたが、岊は「国家の利になるなら罪を得ても悔いない」と押し切った。しかし本道からの上言で左遷され絳州兵馬都監となり、両州の警戒が解けぬうちに再び麟府駐泊都監に戻り安豊に屯し、洛苑使に累進した。夜に数騎で羌中に潜入し機事を偵察した際、羌に発覚し追われたが羌語を使い羌人に紛れて数里を共に走り脱出、前後数度矢を受け、その傷が腕に発して卒した。