劉文質(字士彬)
- 保州保塞の人。簡穆皇后の従孫。父の劉審琦は虎牢関で戦死した。太宗に近侍し、両浙走馬承受・西京左蔵庫副使・岢嵐軍使を歴任し、麟州・慶州で万保移らの蕃族や契丹の黄太尉砦を破った。
- 李継遷の侵寇に際し、庫銭が使えぬ状況で私財200万を投じて士気を高め大破した。涇州・清遠軍を歴任し、蕃部の逃卒処理では厳罰を一部に留め寛大な処置も併用した。
- 秦州で小落門砦を築き、簡穆皇后の縁故と父の戦死により厚遇された。代州知事として卒し、子3人が官を授けられた。子の劉渙・劉滬はいずれも名を知られた。
劉渙(字仲章)
- 章献太后の長期臨朝に対し還政を上書したため黥刑を命じられかけたが呂夷簡・薛奎の諫言で免れた。仁宗親政後、右正言に擢され郭后廃立に反対し伏闕して罰金を受けた。
- 并州での妓との関係を咎められ磁州通判に降格されたが、夏人叛乱時に青唐の唃氏との通好を成功させ、直昭文館・陝西転運使に至った。保州での虎翼軍反乱を単騎で鎮圧し、登州では海賊対策の刀魚船を整備した。
- 河北地震後の澶州で公銭を投じて耕牛を買い民に分配、後にその代金を元値のまま返すなど善政を行った。工部尚書で致仕し、老齢でも安南討伐への従軍を志願したが叶わず、享年81で卒した。
劉滬(字子濬)
- 深沈寡言で知略あり。渭州瓦亭砦監押として党留族を破り、任福敗戦時には城門を開いて避難民を保護した。韓琦・范仲淹に薦められ、水洛川の要地を開拓し漢民の帰化を集めて経営を成功させた。
- 鄭戩の下で氐酋鐸厮那を内附させたが情勢が急変し包囲されるも、寡兵ながら冷静な指揮で撃退した。氐の反乱を経て通秦渭の路を確立、内殿崇班に遷ったが、尹洙の命令違反として狄青により獄に下された。氐衆の再叛乱を経て復官し、城砦を完成させたが結局は一官を黜けられ、砦の完成直後に病没した。水洛城に祠が建てられ祀られた。