宋史卷三百二十一 列傳第八十 鄭俠

鄭俠(字介夫)

  • 福州福清の人。王安石に見出され進士高第、光州司法参軍として安石の施策の実情を訴え続けたが受け入れられず、監安上門として新法の弊を書で訴え続けた。
  • 免役法による民の困窮を目にし、熙寧六年から七年にかけての大旱による流民の惨状を絵に描いて上疏し、「十日雨降らずば宣徳門外で斬られても構わない」と直訴した。神宗はこの図を見て寝食を忘れ、翌日に免行銭・青苗・免役・保甲・方田等18事の停止と責躬詔を発した。三日後に大雨が降った。
  • 王安石は辞職を求め、呂惠卿・鄧綰らが新法復活を訴えたため新法は復活した。鄭俠は擅発馬逓の罪で御史に付され、さらに恵卿執政期には唐の魏徴・姚崇・宋璟と李林甫・盧杞を対比した図を上疏し謗訕とされ、汀州に編管された。
  • 御史台吏楊忠信から名臣諫疏を託され、恵卿を弾劾し馮京の党与としても劾せられた。獄が成ると恵卿は死罪を求めたが、帝は「俠の言は身の為でない」として英州への流に止めた。英州では僧屋に住み民に敬愛され、哲宗立後にようやく帰還を許された。宣和元年、享年79で卒し、郷里に鄭公坊が建てられた。

史論(呂誨・劉述・劉琦・錢顗・鄭俠)

  • 呂誨は三たび言により黜けられ、劉述・劉琦・錢顗も窮厄のうちに死んだが、いずれも悔いなく、その名は後世に昭著である。鄭俠は微官の身でありながら片言で君主を悟らせ、殃民の法をほぼ一挙に廃させた。その功は成らなかったが、この心は天下後世に恥じない。呂惠卿・鄧綰の罪は誅するに余りある。