宋史卷三百二十一 列傳第八十 呂誨

呂誨(字獻可)

  • 開封の人。祖父呂端は太宗・真宗の相であった。性は純厚、進士に登第し屯田員外郎から殿中侍御史となり、風聞奏事の弊を戒める疏を上げた。樞密副使程戡の貴倖への接近を疏し、宣徽使への留任にも反対した。
  • 兖国公主の夜間入訴事件では閽吏の劾奏と主第の処罰を求め、御薬供奉官の遙領団練使の慣行を廃した。樞密使宋庠の陰謀を劾し庠を罷免、続く陳升之にも異議を唱えて出知江州となった。
  • 嘉祐六年、皇嗣建立の急務を疏し、太史の彗星観測に関連して社稷の危機を訴えた。仁宗はこの疏を中書に付し、韓琦がこれを機に嗣子擁立を定めた。
  • 英宗不予の際は皇太后の政務関与を進言し、都知任守忠の専権を弾劾、内外の憂懼を解いた。太后の帰政後は「事の大者は関白すべし」と帝に諫めた。治平二年、兵部員外郎兼侍御史知雑事として台諫の欠員を訴えた。
  • 濮議において「王を皇伯と称すべし」との侍従案に対し、大水を機に濮王一事の失を批判し、宰相韓琦の五罪(昭陵の土いまだ乾かぬうちに追崇の議を興したこと等)を弾劾したが受け入れられず、御史范純仁・呂大防と共に歐陽脩をも劾した。詔で濮王「称親」が定まると呂誨らは告勅を返し、輔臣との両立不可を訴えたが、結局は工部員外郎に降された。
  • 神宗立後、鹽鐵副使・天章閣待制・知諫院を経て御史中丞となり、宮中の金・真珠濫用を諫めた。王安石の登用に反対し、「大姦は忠に似、大佞は信に似る」との論を展開し、辟光の岐王離間事件にも関連付けて安石を弾劾したが用いられず、知鄧州に出た。
  • 病中、司馬光に「安石を斥けねば国事を誤る」と語った先見が的中し、光は感服したという。享年58で卒し、通議大夫を追贈された。呂誨罷免の後、御史劉述・劉琦・錢顗も安石批判で黜けられた。