豐稷(字相之)
- 明州鄞の人。廉明で知られ、安燾に従って高麗に使いした際、大風で船が覆りそうになっても神色自若としており、安燾に「豐君は測りがたい」と称された。
- 知封丘県、監察御史を歴任し、参知政事章惇の請託を斥け、章惇が陳州に出るのを見た。殿中侍御史として哲宗に洪範を範とすべしと説き、劉奉世の夏国嗣子祝賀に関する越境処分を劾した。
- 揚王・荊王への蜀道織錦の厚遇を糾正し、国子司業・起居舎人・太常少卿・国子祭酒を歴任、元祐八年の異常気象に際し宮掖の側近専権を戒める疏を奉った。徽宗の親政開始時には近幸の召還を諌めた。
- 御史中丞として蔡京と対峙し、その姦状を論じた。宦官の専盛に対し『唐書』仇士良伝を懐に入れて帝前で読み、曾布の丞相就任に対しても抗論した。礼部尚書時には哲宗升祔の配享に司馬光・呂公著を推した。
- 建中靖国の意義を「尊賢納諫・不作奇技淫巧」と説き、宮中の華美な調度を戒めた。積忤の末に樞密直学士として知越州に出され、蔡京執政期に貶謫が重なり、除名され建州に徙されたが、後に朝請郎に復し、享年75で卒した。建炎中に学士を追復され、諡「清敏」を賜った。三たびの言責において草案を密室で行い、退けば焼却したという。
史論(鄭獬・陳襄・錢公輔・孫洙・豐稷)
- 熙寧の新法施行にあたり、軽進の少年が競い進む中、老成な知務の士は逡巡して身を引いた。鄭獬は議論剴切で青苗法施行と共に決然と職を辞し、窘迫にも屈さなかった。陳襄は海隅から奮起し屡々挫折しても学者を化育し続けた。錢公輔は安石に忤って黜けられ、孫洙は諫官として免役取贏の弊を力争した。豐稷は蔡京を劾し司馬光・呂公著の配享を論じ、いずれも名だたる侍従であった。