宋史卷三百二十 列傳第七十九 蔡襄

蔡襄(字は君謨、興化軍仙遊の人、享年56)。「四賢一不肖」の詩で名を上げ、慶暦三年に知諫院として言路を担った諫官。福建転運使・知福州・知泉州・翰林学士・三司使を歴任し、水利・治水・書に優れた。書は当代第一とされ、諡は忠恵。

年表(5件)

出自と初任

  • 蔡襄は興化軍仙遊の人。進士に及第し、西京留守推官・館閣校勘を歴任した。
  • 范仲淹が言事により朝廷を去ると、余靖が論じて救おうとし、尹洙は同罪の貶謫を願い出、歐陽脩は書を移して司諫の高若訥を責めた。この三人はいずれもこれにより譴責を受けた。蔡襄は「四賢一不肖」の詩を作り、都の人々は争ってこれを書写し、書を売る者は厚利を得た。契丹の使者も来朝の際にこれを買い求め、幽州の館に張り出した。

慶暦三年の諫官擁立と上疏

  • 慶暦三年、仁宗が輔相を更めて用い、余靖・王素を諫官に抜擢すると、蔡襄も詩を賦してこれを賀し、三人を列薦した。帝は蔡襄に知諫院を命じた。
  • 蔡襄は言路が開けたことを喜びつつ、正しい人材が長く立場を保てないことを懸念し、上疏した。要旨は「朝廷が諫臣を増用し、王素・余靖・蔡襄を一日にして並び任じたのは朝野の慶事だが、諫を聴くことは難しく、邪な者が禦ぐための説(好名・好進・彰君過の三説)を必ず作るだろう」と述べ、それぞれを弁じてこれを退けるよう願った。
  • また災異(旱・蝗・日食・地震)は君臣上下の闕失に由来すると論じ、大臣の失・臣等の罪をも指摘し、陛下が既に引過の言を発した以上、その実を思うべきだと説いた。この疏が出ると、聞く者は皆粛然とした。
  • 直史館・修起居注を兼ね、開寳寺の浮図が災に遭い、宮中に取り入れた旧瘞の仏舎利を人々が灼臂・落髪して拝もうとし、再建の議が起こると、蔡襄は「非理の福は徼幸すべきでない、今生民は困苦し四夷は驕慢であるのに、専ら仏法を信じるのは天意に逆らうものだ」と諫めた。
  • 呂夷簡が平章国事となり宰相以下がその邸で議政すると、蔡襄はこれを停めるよう奏請した。元昊が款を納めて自ら「兀卒」(吾祖の意)と称したことについては、「吾祖」とは「我が翁」の意で朝廷への慢侮であると論じた。夏竦が枢密使を罷免され韓琦・范仲淹が用いられると、蔡襄はこれを賀し、一邪を退け一賢を進めれば衆邪衆賢がそれぞれ連動すると論じた。
  • 保州の兵卒が乱を起こした際、蔡襄は「もし招撫を求めて誅殺せねば驕慢暴乱の源を開く」と述べ、兵を入れて誅すべきと主張し、その議に従われた。

地方官と晩年

  • 母の老いを理由に知福州を求め、福建路転運使に改まり、古五塘を開いて民田を灌漑し、五代以来の丁口税を半減させた。復た起居注を修めた際、唐介が宰相を撃った事件では、蔡襄は「進忠から出た言葉ゆえ寛貸を望む」と進言したが、唐介は春州に貶され、蔡襄は必死の謫であるとして改めて英州へと上疏した。
  • 温成后の追冊に際しては忌避を立てぬよう請い、監護園陵官を罷された。知制誥に進み、三御史が梁適の解職を論じた際は蔡襄は制を起草せず、以後は非当職の除授があるたびごとに封還した。帝の信任は厚く、親書「君謨」の二字を賜った。
  • 龍図閣直学士として知開封府に遷り、精吏の評判を得た。枢密直学士として再び福州を知り、周希孟・陳烈・陳襄・鄭穆ら行義著名の士を礼を尽くして招き、経学を講じさせた。俗の重い凶儀を諫めて禁じ、知泉州では万安渡に長さ三百六十丈の石梁を築き、蠣を礎に植えて固め、松七百里を植えて道を庇陰させた。閩人はその徳を碑に刻んだ。
  • 翰林学士・三司使として天下の盈虚出入を較量し、蠹弊を剗剔した。英宗が不予の際、皇太后が聴政するにあたり、宦妾らが煽動し危うく大事を敗るところであったが、蔡襄には論議に関与した噂が立ち、これを機に杭州へ移り、端明殿学士を拝した。治平三年、母の喪に丁り、翌年卒した。享年56、吏部侍郎を贈られた。
  • 蔡襄は書に工み、当時第一とされ、仁宗にことのほか愛された。蔡京とは同郡でありながら遅れて出て族弟を名乗り、政和初年、蔡襄の孫の蔡佃が廷試で首位に唱名されると、蔡京は族孫に嫌を避けて第二に降し、蔡佃は終身これを恨んだ。乾道中、蔡襄に諡「忠恵」を賜った。