宋史卷三百十九 列傳第七十八 曾鞏

出自と経歴

  • 曾鞏、字は子固。建昌南豊の人。生まれつき聡明で、十二歳で「六論」を即興で書き上げるほどの才を示し、欧陽脩に文才を認められた。嘉祐二年、進士に及第、太平州司法参軍、館閣校勘・集賢校理・実録検討官を歴任。
  • 越州通判として、酒場銭による牙前銭の不公平な徴収を廃止。飢饉時、常平倉の不足を補い、富人に自ら米穀を提供させる形で民を救済した。齊州知事として姦盗を厳しく取り締まり、曲堤周氏・章邱の霸王社(盗賊集団)を平定、自首制度で盗賊を投降させ治安を回復させた。
  • 黄河治水の民夫調発を精査し隠漏を摘発、無用な渡し銭を廃止し橋を架けて六駅分の労を省いた。襄州・洪州知事として、江西の疫病流行時に医薬・宿泊を提供し民を救済、軍の南征に際しても事前準備で民の負担を軽減した。
  • 福州知事として盗賊の投降を促し、寺院の主守選任の不正を廃した公正な人選制度を導入、園蔬の専売利益を放棄し「太守が民と利を争うべきでない」と述べた。明州・亳州・滄州を歴任、神宗に召見され経費節約論を評価された。
  • 三朝両朝国史の統合編纂を命じられたが完成前に官制改革があり、中書舎人として詔勅起草に精励、延安郡王(哲宗)の牋奏を委ねられた。母の喪に服し数月後に没した。六十五歳。
  • 孝友の人柄で、父の没後継母によく仕え、四人の弟・九人の妹の学問・婚姻の世話をすべて自ら担った。文章は六経を本とし司馬遷・韓愈を折衷して独自の境地を開いた。若き日、王安石を欧陽脩に紹介したが、安石が名を成した後は疎遠になった。
  • 神宗に王安石の人物評を問われ「文学行義は揚雄に劣らないが、吝(改過を渋る)である」と答えた。呂公著は「鞏の人となりは行義より政事に劣り、政事より文章に優れる」と評し、これが不用に終わった理由とされる。弟の布には別伝あり、幼弟に肈がいる。

曾肈(鞏の弟)――附伝

  • 字は子開。進士に及第、鄭州教授、崇文校書・館閣校勘・国子監直講を歴任。太常礼院で秦以来の礼文の欠落を補い、北郊での皇地祗祭祀の制を定めた。兄布の市易事件連座で不遇な扱いを受けたが泰然としていた。曽公亮の薨去に際しその行状を記し神宗に評価された。
  • 元祐初、起居舎人・中書舎人として、葉康直の秦州知事就任問題や韓維・胡宗愈を巡る論争で公正な立場を貫いた。太皇太后の受冊儀礼を巡り、天聖の故事に基づく謙譲論を進言。
  • 旱害時の春宴の中止を彭汝礪と共に上疏し実現。蔡確の左遷を巡る封還事件で「友を売った」と誤解されたが弁明しなかった。禮院での親祠北郊の議論を貫き、後に自ら弾劾を求める潔さを見せた。
  • 哲宗親政後、日食を機に求言の詔書起草を担当、元祐旧臣の名誉回復を訴え、亡くなった者にも哀悼の詔を求めた。翰林学士兼侍読として陳瓘・龔原の弁護に尽力。兄布の拝相の制を自ら起草した(父子・兄弟で制を書き合う栄誉として「韓維と肈のみ」と評された)。
  • 建中靖国元年、再度の日食を機に朋党の弊害・賞罰の公正・言路の閉塞を痛烈に諫言。兄布が失脚すると龍図閣学士・中太一宮使を経て地方官を歴任、崇寧初に貶降されたが政和三年に復職、六十一歳で没した。
  • 天資仁厚で容貌端厳、経伝の学に博く文章は温潤で法度があった。十一州を歴任し善政多く、紹興初、諡は文昭。子の統は左諫議大夫に至った。

史論

劉敞は博学雄文で古に迫る学識を持ち、考功の職で仁宗の夏竦への諡号授与に異議を唱え、大楽の議論で宦官の介入を諫めた気節は、君主に阿ることのない士の姿を示す。弟の攽も疎放ながら文才は兄に劣らず、子の奉世もよく家風を体現し、世に「三劉」と称された。曾鞏は欧陽脩・王安石の間にあって独自の文体を打ち立て、その難事を成し遂げた。肈は儒者でありながら能吏の才を兼ね、宋中葉の文学・法理に精通した点で、劉氏・曾氏の家学は両漢の遺風を思わせるものがあった。