宋史卷三百十八 列傳第七十七 趙槩

出自と経歴

  • 字は叔平。南京虞城の人。篤学で名を知られ、進士に及第、海州通判・集賢校理・開封府推官。洪州知事として章江の氾濫対策で石堤を築いた。僚吏の不正を鎮圧し、避難兵卒の反乱の噂を鎮静化させた。
  • 直集賢院知青州、滁州知事として盗賊李二の侵攻を「公は青州で民を父母のように愛した」との理由で回避させた逸話が残る。欧陽脩の後任として知制誥。母の高齢による恩封を求め、以後の慣例となった。
  • 蘇舜欽事件で除名された名士たちの復権を求めた。翰林学士として契丹に使いし、契丹主から詩の贈答を受けるなど厚遇を得た。諫官郭申錫の弾劾を巡り、帝の急な処分を諫め撤回させた。
  • 御史中丞として張茂実の禁兵掌握への反対を継続。内臣の暗転(資格昇進の不正)を制限。樞密使・参知政事。熙寧初、観文殿学士知徐州、太子少師で致仕。退居十五年、諫林百二十巻を編纂し神宗に献じ、賜詔で称賛された。元豊六年、八十八歳で薨去。太子太師を贈られ諡は康靖。
  • 温和な性格で怨みを表に出さず、密かに人に利するところが多かった。欧陽脩との確執も、脩の獄事に際し抗章して助け、脩をして「長者」と服させた。鄆州知事時代、前任者馮浩の負債を自ら肩代わりした。