出自と経歴
- 字は当世。鄂州江夏の人。若くして俊逸で、郷挙・礼部・廷試すべてで第一となった。張堯佐が娘婿にしようとしたが、京は固辞して出仕せず。将作監丞、荊南通判、直集賢院・判吏部南曹を歴任。呉充の温成皇后追冊反対で高郵に出された際、京は呉充を弁護し、仁宗に「京に罪はない」と評された。
- 知制誥、龍図閣待制知揚州・江寧府、翰林侍読学士、開封府知事を歴任。丞相府への不参を巡り韓琦に誤解されたが、富弼への弁明で解けた。陝西安撫使として古渭の城築を進言し、西夏の右腕を断つ策を提示。端明殿学士知太原府、神宗即位後は翰林学士・御史中丞として王安石の改革の是非を論じ、安石に邪説と非難されたが、帝は京を有用とみなし樞密副使に抜擢。
- 河東の防備不備を自ら弾劾し綱紀の維持を図った。参知政事として安石と度々論争、劉攽・蘇軾の推薦、保甲養馬への反対を行ったが、鄭俠の上書に絡み呂恵卿の讒言で亳州に左遷。茂州夷の反乱で成都府知事に転じ、寛容な統治で夷人を心服させた。呂恵卿が安石の私書を暴露した際「齊年(京のこと)に知らせるな」との記述があり、帝はこれを機に安石の欺瞞を疑い京を樞密院知院事に再召した。
- 哲宗即位後、保寧軍節度使・大名府知事、彰徳軍に改鎮。范祖禹は京の中立を先帝からも評価されたと述べた。中太一宮使・宣徽南院使を経て太子少師で致仕。紹聖元年、七十四歳で薨去。帝は自ら弔い、司徒を贈り諡は文簡。
- 郡守として公事に精通し敏捷に処理し、法吏を通さず直裁で裁決したため人々はその敏腕に服した。