出自と経歴
- 字は長文。濰州北海の人。強記で博学、五経に通じ大理丞・監京東排岸を経て、慶暦の宿衛の変に際し、皇城司の官の処罰不徹底や賊への口封じの疑いを上疏し、召見された。
- 殿中丞、太常博士、通判陳州、右司諫、同知諫院を歴任し、左右の姦倖の抑制を専ら諫言した。内東門の賄賂事件を巡り開封知府魏瓘を弾劾し左遷させたが、彭思永の言論に関し出所を問い詰める風潮を批判し「御史風聞の原則を害する」と諫めた。郭承祐・張堯佐の宣徽使就任にも反対した。
- 皇祐年間の災異について、天道・地道・人事の不順を並べ、賢者を登用し不肖を退けるべきと説き、政令の一貫性を求めた。文彦博との対立で党人扱いされ密州に出されたが、両浙転運使・登聞検院・知制誥を経て契丹への使者を務めた際、衣冠の格式を巡る折衝で毅然と応対した。
- 至和三年の大水を機に、皇子継嗣の議論を上疏し、宗室の賢者を立てることを勧めた。翰林学士権開封府として孫氏の不正な財利独占を摘発し豪猾を畏服させた。端明殿学士・成都府知事、鄆州を経て翰林に復し樞密副使。治平中、父の喪に服し墓側で庐した。
- 神宗即位後、参知政事。王安石の招聘を巡り「安石は護短自用の性で、用いれば必ず綱紀を乱す」と諫言。四凶の故事を引き、君子を要職から遠ざけないことを説いた。御史中丞王陶の韓琦弾劾を巡り、王陶を支持したことで疎まれ資政殿大学士知青州に出されたが、司馬光の弁護で中書に召還された。琦の罷免後、再び青州に出され、翌年五十八歳で薨去。兵部尚書を贈られ諡は文粛。
- 廉直な士を好んで称揚し、若い頃は貧しかったが通貴後は義荘を設け族党・朋友を救済し、没時に家に余財がなかった。