宋史卷三百十五 列傳第七十四 韓縝

出自と経歴

  • 字は玉汝。進士に及第、南京判官のとき水害を機に直言を上疏。武臣が親の喪に服さない慣例を改め、三年の服喪を制度化させた。殿中侍御史・参知政事孫抃の怠慢を批判、陝西転運副使薛向の人事不正、劉永年の外戚による不当な防禦使就任、内侍史志聰の不正使役を弾劾し、正された。
  • 度支判官・両浙淮南転運使・河北転運使を歴任。西夏の秉常が使者を送り冊封を求めた際、朝廷が夏に責任を問おうとし、縝が問罪の使者として赴き自白を得た。
  • 天章閣待制知秦州のとき、酔って侍妾と遭遇した指使傅勍を鉄杖で殺害させ、その妻の訴えにより分司南京に左遷。「玉汝に遭うより虎に遭う方がまし」と秦人に評された。
  • 瀛州で遼の使者蕭禧と代北の国境交渉にあたり、水嶺を境とすることで合意、龍図閣直学士。元豊五年官制改革で同知枢密、知院事。哲宗即位後、尚書右僕射兼中書侍郎(首相)となったが、蔡確・章惇の陰謀を宣仁太后に暴露し混乱を防いだ。
  • 元祐元年、割地外交(遼への六百里割譲)を理由に御史らに弾劾され罷免、観文殿大学士知頴昌府などを歴任し、紹聖四年、七十九歳で没。太子太保・司空を贈られ、諡は荘敏。厳格な性格で知られたが、功業には乏しかったと評された。子は宗武。

韓宗武(縝の子)――附伝

  • 進士に及第、韓忠彦に招かれ河間令となり、河川堤防工事の際の墓木伐採を止めさせた。徽宗即位後、日食を機に上疏し、大臣の公論軽視・君主の政事怠慢・辺境無策・財政窮乏・盗賊の頻発など五つの懸念を指摘、朋党の弊害を批判した。
  • 哲宗の祔廟に際し、宮中の書画取り立てを急ぐ内侍を諌め、太后の怒りを買ったが帝に救われた。淮南転運判官として不正な借款回収を糾弾し、蔡京の推薦を拒み致仕。大中大夫まで昇り八十二歳で没した。

史論

王偁の論によれば、後漢の袁安が贓罪の裁判で無実の人を陥れなかったことは仁心の徳として後世に称えられるが、韓億も人の小過を暴くことを嫌う姿勢を持ち、いずれも盛徳とすべき事績である。億の子らは各々公府に列し、その行いはそれぞれの持ち味を発揮した――絳は「同」、維は「正」、縝は「厳」に適し、なかでも韓維が最も賢であったと評される。