宋史卷三百十三 列傳第七十二 文彦博

文彦博、字は寛夫。汾州介休の人(?–紹聖年間、享年92)。仁宗・英宗・神宗・哲宗の四朝で50年にわたり将相を歴任した北宋の重臣。仁宗発病時の禁中対応や貝州の乱平定などで知られ、洛陽耆英会を主宰したことでも名高い。

年表(6件)
  • 至和二年富弼と共に同中書門下平章事昭文館大学士を拝す
  • 至和三年仁宗発病時に禁中に宿泊し続け対応にあたる
  • 元豊三年太尉となり判河南となる
  • 元祐初平章軍国重事に任じられる
  • 元祐五年再び致仕する
  • 紹聖初太子少保に降格され、まもなく卒す。享年92

経歴と辺境での功績

  • 文彦博、字は寛夫。汾州介休の人。先祖は敬氏だったが晋高祖と宋翼祖の諱を避けて文氏と改めた。少くして張昪・高若訥とともに頴昌で史炤に学び、炤の母はその器量を見抜き厚遇した。進士に及第し知翼城県・通判絳州、監察御史・殿中侍御史に転じた。西方用兵時、臨陣で先に退き敵を望んで進まない偏校を大将が独断で処分できる制度に「これは平時に施すべきもの、今数十万の兵を擁し将権が専断できなければ兵法が保てない」と諫め、仁宗はこれを嘉した。
  • 黄徳和が劉平を誣告した事件で、徳和が平の奴隷に金帯を賄賂として渡し平の家族200人を械繋させた件を彦博が河中で鞫治し実を得た。徳和の党が異なる御史を送り込んでもこれを拒み「朝廷は獄が成らぬことを憂え人を送るが、既に案は固まった、戻らせよ」と述べ徳和とその奴は処刑された。直史館・河東転運副使、鄜州の遠回りの餉道を復旧する父洎の遺志を継ぎ、粟を貯え、元昊の来寇に備えて城の防備を固め、10日間の包囲を凌いだ。天章閣待制・都転運使、龍図閣・樞密直学士・知泰州・益州を歴任。益州で毬を蹴っていた際、外の喧噪の理由を調べ命令に従わない卒長を斬った。
  • 樞密副使参知政事に召され、貝州の王則の乱を明鎬が久しく鎮圧できず、彦博が自ら赴任し旬日で賊を潰し則を京師に檻送した。同中書門下平章事集賢殿大学士、張瓌・韓維・王安石らの登用を薦め恬退守道を褒めるべきと説き、樞密使龎籍と議して8万の冗兵を汰った。論者はこれで盗賊が増えると懸念したが、彦博は「今の公私困窮は正に冗兵に因る、難事があれば臣が死をもって責を負う」と主張し実行、無事に済んだ。昭文館大学士に進んだが御史唐介が蜀在任時に錦を用いて宮掖に取り入り登用されたと弾劾、介の貶謫後も彦博は観文殿大学士知許州に罷免され、忠武軍節度使知永興軍を経て至和2年吏部尚書同中書門下平章事昭文館大学士で富弼と共拝された。

仁宗発病時の対応

  • 3年正月、帝が朝を受ける最中に急病に倒れた際、彦博は内侍史志聰に状況を問い「禁密で漏らせません」と拒否されると「お前たちは禁闥に出入りしながら宰相に天子の起居を知らせぬとは何事か、以後は病状の増減を必ず告げよ、さもなくば軍法を行う」と一喝した。彦博は同列の劉沆・富弼と共に大慶殿で醮を挙げ殿廬に宿泊し続け、志聰が「先例にない」と言うと「これが先例を論じる時か」と応じた。知開封府王素が夜に宮門を叩き変事を訴えたが入れられず、翌朝禁卒が都虞候に叛乱を唆したとの告発があった際、沆は捕らえて治罪しようとしたが、彦博は都指揮使許懐徳に都虞候の人柄を問い信頼できると聞くと「では兵卒の怨みによる誣告に過ぎない、速やかに誅して衆を静めるべき」と述べ、沆に判状を書かせ軍門で斬らせた。
  • 以前、弼が李仲昌の策により澶州商湖河を穿ち六漯渠を横壠故道に通じさせる工事を進めていたが、北京留守賈昌朝が弼を憎み内侍武継隆と結び司天官2人に「河を北方で穿つのは帝の体に障る」と殿庭で発言させた。彦博はその意図を察したが対処できずにいたところ、数日後2人が「皇后の聴政」を提案(これも継隆の教唆)、志聰がこれを執政に報告すると、彦博はこれを懐に入れ同列に見せず喜色を浮かべ、後で2人を呼び「天文の異変は汝らの職分、なぜ国家の大事に口出しするのか、汝らの罪は族に及ぶ」と叱責、2人は色を失ったが「愚かなだけ」として一旦許し以後を戒めた。同列に状を示すと「奴が僭言するとは、なぜ斬らないのか」と憤ったが、彦博は「斬れば事が中宮に彰かになり不安を招く」と述べ、司天官による六漯方位の確定議に2人を再派遣する動きに彦博は「もともと妄言する者ではなく教唆者がいるはず」と述べた。
  • 帝の病癒えた後、京師は彦博・弼の重厚な対応で無事に済んだが、沆は帝に「陛下の違豫時に彦博が擅に告反者を斬った」と密告し、彦博はこれを聞き沆の奏を帝に示して弁明、帝の意は解けた。御史吳中復が唐介の召還を求めた際、彦博は「介が御史として自分を批判した過去があるが誤りに寛容であるべき」と述べ従わせ、彦博の厚徳が評された。
  • 河陽三城節度使同平章事判河南府潞国公、鎮保平・判大名府・鎮成徳・尚書左僕射判太原府・鎮保平判河南を歴任、母の喪で英宗即位時に起復成徳軍節度使とされたが3度上表し喪の終了を許された。仁宗不豫の際、彦博らは儲嗣を建てるべきと請うたが後宮に子ができるかもしれず一時延期、その後彦博も去位、弼も憂いで去った。喪明けの後、河南知事に復し英宗に「朕の即位は卿の力による」と言われ「陛下の入継大統は先帝の聖意と皇太后の力によるもの、朕の即位時は臣は外にあり韓琦らが受命した、臣は関わっていない」と謙遜した。帝は「始めの議に卿は朕に恩がある」と言うと彦博は避けて答えず、帝は「暫く西行を煩わせるが必ず召し戻す」と述べた。侍中に除せられ淮南に転じ判永興軍、樞密使・剣南西川節度使に入り、熙寧2年陳升之相拝の際「彦博は朝廷の宗臣、升之の下位に立たせよ」との詔があったが「国朝で樞密使が宰相の上位に立ったのは曹利用のみ、礼義をわきまえこれに倣うことはできない」と固辞した。

王安石時代の抵抗

  • 夏人が大順慶を犯した際、慶帥李復圭が陳図方略を鈐轄李信らに授け敗北した後に信らの罪を誣奏したのを、彦博がその非を暴き宰相王安石が信らを誅すると秦人は寃罪と嘆いた。慶州兵乱に際し彦博は「朝廷の行事は人心に合わせるべき、衆論を採り静重を第一とすべき、陛下は治を求めても人心が未だ安まらないのは変革の過ぎたるゆえ、祖宗法は必ずしも悪いわけではなく偏りがあるだけ」と述べ、安石は自らへの批判と受け止め「民害を除くのに何が不可か、万事に躊躇すれば西晋の風に陥り治に何の益があるか」と反論した。
  • 御史張啇英が安石に付き樞密使の他事を持ち出し彦博を揺さぶろうとしたが誣告と判明し貶されたものの、彦博は樞密府9年在任の後、市易司の果実売買が国体を損ね民怨を招くと論じたことで安石に嫌われ、司空河東節度使判河陽に転じ大名府に移った。身は外にあっても帝の眷顧は厚く、転運判官汪輔之が彦博の不作為を訴えた際、帝は「侍中の旧徳ゆえ北門の細務を煩わせる必要はない、輔之の無礼な言は別途処置する」と批答した。
  • 選人李公義の鉄龍爪治河法に宦官黄懐信がその制を改案した濬川杷法を安石が信じ、都水丞范子淵に行わせたところ子淵は成功を奏し民田数万頃が復したと報告、大名で実状調査が求められると彦博は「河は杷で浚渫できるものではない、愚人でも分かること、雷同して欺くことはできない」と疏で反対したが帝は不快、熊本らを再派遣し彦博の言通りと確認された。子淵は召見を請い、本らが安石罷免後の彦博の再相を見越して説をすり合わせたと述べ、御史蔡確も本らを弾劾し本らは罪を得たが彦博だけは問われなかった。司徒を加え元豊3年太尉、再び判河南。
  • 王同老が至和中の儲嗣議事を証言した際、彦博は入朝しており神宗が問うと英宗への回答同様「先帝の天命、仁祖の知子の明、慈聖の擁佑の力、臣らに何の功があろう」と答え、帝は「天命とはいえ人謀にもよる、卿の深厚さは丙吉のようだ、真の定策社稷の臣」と称え、彦博は「周勃・霍光のようなもの、至和以来中外の臣の献言は多く、臣らも請うたが果たされず、韓琦らが遂に事を成した、これは琦の功」と応じ、帝は「発端が難しい、仁祖の意は既に定まっていたが、嘉祐末の申前詔にすぎない、丙吉と霍光は互いに掩わない」と評した。両鎮節度使を加えられたが辞退、瓊林苑での送別の宴と中謁者による祖道の詩を賜り世に栄とされた。
  • 王中正が辺事経制の名目で密旨を称し禁兵を募り西行しようとした際、彦博は詔がないとして拒み、中正も募兵せず去った。老を理由に太師致仕、洛陽に居した。元祐初、司馬光が「彦博は宿徳元老、輔けに起用すべき」と薦め、宣仁后が三省長官に用いようとしたが言者が不可とし平章軍国重事(6日に1度参内、月に2度経筵)に任じられた。しかし彦博は毎年退隠を求め5年に再び致仕した。紹聖初、章惇秉政の頃、彦博が司馬光に朋附し先烈を詆毀したとする言者があり太子少保に降格、享年92で卒。崇寧中に元祐党籍に列せられたが特命で除籍され太師を追復、諡忠烈。彦博は4朝に仕え将相を歴任すること50年、名声は四夷に及んだ。

逸話と一族

  • 元祐間、契丹使耶律永昌・劉霄が訪れた際、蘇軾が館客としてこれに随行、使者は殿門外で彦博を望み容を改め「これが潞公か」と問い年齢を尋ね「何と壮健な」と驚いた。軾は「使者は容貌のみ見て言葉は聞いていない、彦博の庶務処理は少壮の吏でも及ばず、古今への通暁は専門家も及ばない」と評すと使者は「天下の異人だ」と拱手した。洛西の羌の首領温溪心が名馬を彦博に贈りたいと辺吏を通じて願い出、詔で許された。異国からもこのように敬われた。
  • 彦博は富貴を極めながら平生人に接する態度は謙虚で徳を尊び善を楽しみ及ばないことを恐れるようだった。洛陽在住の際、邵雍・程顥兄弟ら道を重んじる人々と布衣の交わりのように接し、富弼・司馬光ら13人と白居易の九老会の故事にならい酒宴と賦詩を楽しみ官職でなく年齢順に座り堂に肖像を描いた「洛陽耆英会」は世の慕う所となった。神宗が洛から汴へ水を導く工事で洛水が城中に入らなくなり洛人が困っていた際、彦博が中使劉惟簡を通じて事情を伝え通行が復旧し洛城の恒久の利となった。
  • 彦博には8子がおり皆要官を歴任、6子の及甫は初め大理評事直史館で邢恕と親しく、元祐初吏部員外郎、直龍図閣知同州。彦博が平章軍国事の際、及甫は右司員外郎から嫌を避け衛尉光禄少卿に転じ、彦博の再致仕後は知河陽から太僕卿・権工部侍郎に召されたが罷免され集賢殿修撰提挙明道宮に。蔡渭と邢恕が及甫の私信をもとに梁燾・劉摯を誣告する動きに巻き込まれ、詔獄に召された。及甫は元祐に恨みがありこれを実らせたが、坐して奪職された後間もなく復し卒した。

史論――富弼・文彦博

  • 国家が隆盛の時、大臣には必ず耆艾の福があり、その余沢は当代を覆う。富弼は再び契丹と盟い南北の民が数十年戦火を見ずに済ませた、仁人の言はその利博大である。文彦博は朝廷に立てば端重で顧盼に威があり、遠人の来朝もその風采を仰いだ、徳望は千里の外まで折衝禦侮するに足りた。公忠直亮・臨事果断はいずれも大臣の風があり、太平の世に高寿を保った。至和以来大計を建て功成りて退居し朝野の重んじる所となったが、熙豊以降弼・彦博が相次いで老いるにつれ憸人が忌憚なく善類を淪落させ、宋の業は衰えた。書経に「番番たる良士、膂力すでに愆るも我なお之を尚ぶ」とあるが、まさにその通りである。