宋史卷三百十 列傳第六十九 王曾

出自と栄達

  • 王曾、字は孝先、青州益都の人。幼くして孤児となり仲父の宗元に育てられ、里人の張震に学んだ。咸平中、郷貢から挙げられ礼部試に赴き廷対まで全て首席であった。楊億はその賦を見て「王佐の器」と嘆じた。将作監丞として済州通判となり、代わって帰った際、学士院での試験を待つはずが、宰相寇凖がその才を奇として特に政事堂で試験させ秘書省著作郎直史館・三司戸部判官を授かった。景徳初、契丹との和議が始まり毎年使者に手紙を送る際、契丹を「北朝」と称すことになったが、王曾は「自国の国号に従えば足りる」と述べたものの既に使者が発せられ変更されなかった。右正言知制誥兼史館修撰に遷った。
  • 当時瑞応が相次いで到来し、王曾が対面した際に帝がこれに触れると、王曾は「これは誠に国家の太平の結果だが、これを誇らず、後日災沴があれば衆議を免れるべきだ」と奏した。帝が符命を受けたとして大々的に玉清昭応宮を建てた際、誰も敢えて反対しなかったが王曾は五つの害を陳べて諫めた。従来郎中官が大理寺を判じるところ、帝がこれを重視し王曾に判じさせようとし「獄は重典であるが今、卿にこれを委ねる」と述べ、王曾は頓首謝し銭30万を賜り、自ら僚属を選任する権限を求めそれが恒例となった。翰林学士に遷り、帝がある晩、承明殿で長く召見した後、退出後に内侍を通じて「先ほど卿のことを深く思い、朝服を着せる暇もなく召見した、卿は私を怠慢と思わないでほしい」と諭させた。その尊重ぶりはこの通りであった。審刑院を知る際、旧制では違制無故失(詔勅への違反)は徒2年に処されていたが、王曾は必ず親裁を経てから科すべきと請い、その後違反した者があった際、王曾は失論(軽い判断)にすべきと述べ、帝は「卿の言う通りなら違制の罪はもうなくなるだろう」と述べたが、王曾は「天下は広大でどうして人々が制書を全て理解できようか、陛下の言う通りなら失論の罪もなくなってしまう」と述べ帝は悟り、結局王曾の議に従った。尚書主客郎中に遷り審官院を知り通進銀台司・三班院の勾管を経て右諫議大夫参知政事となった。
  • 当時、宮観は皆輔臣を使とする慣習であり、王欽若が符瑞を利用し帝の意にも異論を排除しようとしていたため、王曾は会霊観の使いにあたり欽若にこれを推した。帝は王曾を怪しみ疑い始めたが、欽若が宰相になると、王曾が皇后の実家の旧邸を買った際、その家がまだ立ち退いていないうちに人を遣わして土を門外に置かせたため、賀氏が禁中に訴え、翌日帝がこれを欽若に話すと欽若が王曾を尚書礼部侍郎・判都省に降格させ応天府知事に出した。天禧中、民間で「妖しい飛帽が夜、人を襲う」との噂が京師から南に広がり皆恐れたが、王曾は夜、里門を開かせ流言を唱える者を捕らえさせたところ、結局妖異は起こらなかった。天雄軍に転じ再び参知政事、吏部侍郎兼太子賓客に遷った。真宗が不豫となり皇后が政に預かる中、太子は資善堂で聴事するのみで実権は皇后にあり、中外が憂慮していた際、銭惟演は皇后の実家であったため、王曾は密かに惟演に「太子は幼く宮中の助力なしには立てない、太子に恩を加えることこそ太子の安泰であり皇太子の安泰こそ劉氏の安泰なのだ」と語り、惟演もこれに同意し皇后に伝えた。帝崩御後、王曾は殿廬に入り遺詔を起草し、明肅皇后(章献)が皇太子を輔立し軍国大事を「権聴断」させることとしたが、丁謂は「権」の字を削除させようとした。王曾は「皇帝は幼く太后が臨朝するのはこれが国家の否運を示すためであり、それを『権』と称してもまだ理解を示すもの、しかも制書に増減を加える法は表則の地から始まるべきものだ、まず乱そうとするのか」と述べ、丁謂は結局削除を諦めた。仁宗即位後、礼部尚書に遷った。群臣が太后臨朝の儀を議した際、王曾は東漢の故事に倣い太后が帝の右に座り垂簾で奏事を受けるべきと請うたが、丁謂は帝が朔望に群臣に会い大事があれば太后が輔臣を召して決すること以外は、内侍の雷允恭に奏を伝えさせ禁中で画可(決裁)させようとした。王曾は「両宮が異処となり実権が宦官に帰れば禍の兆しとなる」と述べたが丁謂は聞き入れなかった。まもなく允恭は誅殺され謂も罪を得、以後両宮が垂簾し輔臣が奏事する制は王曾の議に従うこととなった。謂が初めて失脚した際、任中正が「謂は先帝の顧託を受けており、罪があっても律に従い議すべき」と述べたが、王曾は「謂は不忠の罪を得たのに、宗廟を汚した罪をなお議論すべきか」と述べた。当時真宗が崩御したばかりで内外が動揺していたが、王曾は正色して独り立ち、朝廷はこれを重んじた。中書侍郎兼本官同中書門下平章事集賢殿大学士を拝命した。

宰相としての事績

  • 会霊観使の王欽若が卒すると、王曾は門下侍郎兼戸部尚書として昭文館大学士監修国史玉清昭応宮使を務めた。帝の即位当初に師儒を近づけるべきと考え、孫奭・馮元を召して崇政殿で講義させた。天聖4(1026)年夏、大雨に伴い汴口が決壊し水が押し寄せるとの噂が広まり都人が東へ逃げようとした際、帝が王曾に問うと、王曾は「河決の奏はまだ届いていない、これは民間の妖言に過ぎない、心配ない」と答え、実際にその通りとなった。陝西転運使が醋務(酢の専売)を置いて利を榷し天下にこの法を広めるよう請うたが、王曾は廃止を求めた。王曾は方正で持重、進見のたびに利害を述べ、審慎で理にかない、多くの人材を推挙したが特に僥倖を嫌った。帝が王曾に「近ごろ臣僚が対面を請う際、昇進を求める者が多い」と問うと、王曾は「陛下が奔競を抑え恬静を尊べば、進みにくく退きやすい人材が現れるでしょう」と答えた。曹利用は王曾の班位が自らより上であることを不快に思っていたが、利用の罪が問われた際、太后は激怒したが王曾がこれを解こうとした。太后が「卿はかつて利用は強横だと言っていたのに今なぜ弁護するのか」と問うと、王曾は「利用は元来恩を頼み臣が理を持って折ったが、今は既に大悪とされているので、これ以上のことは臣の知るところではない」と答え、太后の怒りはやや解け結局軽い議に従った。太后が受冊し大安殿に御そうとした際、王曾はこれに反対し、長寧節の際の上寿も便殿で共張(設備準備)のみにとどめた。太后の左右や姻家がやや請謁を通じ始めた際、王曾は多く抑制した。太后はますます不快に思い、玉清昭応宮が火災に遭った際、王曾は青州知事に出た。彰信軍節度使として天雄軍知事に復し、契丹使者が往来する際も車馬を統制して通過させ、誰も勝手に通行できなくなり、人々はその政を楽しみ画像を描いて生祠とした。天平軍節度使同中書門下平章事に改まり河南府を判じ、景祐元(1034)年、樞密使、翌年、右僕射兼門下侍郎平章事集賢殿大学士を拝命し沂国公に封じられた。
  • 王曾は人材を進退させても他人が知ることは少なかった。范仲淹がかつて「士人を明らかに引き上げるのは宰相の任であるのに、公の盛徳にはこれが欠けている」と問うと、王曾は「執政する者は恩を自らに帰そうとすれば怨みを誰かに帰すことになる」と答え、仲淹はその言葉に服した。当初、呂夷簡が参知政事であった頃、王曾に対し謹んで仕え、王曾は力を入れて夷簡を宰相に推薦したが、夷簡が地位に就くと王曾の任事が長く多くのことを専決するようになり、意見の相違が多くなり王曾は辞任を求めた。仁宗が疑いを持ち問うと、王曾は「卿にも足りない点があるのではないか」と述べた。当時外に伝わる噂で秦州知事の王継明が呂夷簡に賄賂を渡したとの話があり、王曾もこれに言及したところ、帝が夷簡に問うと王曾と夷簡は帝の前で交々論争し、王曾の発言にも過ちがあったため結局共に罷免され、左僕射資政殿大学士判鄆州に転じた。
  • 宝元元(1038)年冬、大星が晨に宮舎に落ち、左右が驚いて告げると王曾は「1月後にはわかるだろう」と述べ、実際に期日通り薨じた、年61。侍中を贈られ謚は文正。王曾は資質端厚で眉目は絵に描いたように整い、朝廷では立ち居振る舞いも常に定まっていた。平生寡言笑で人が私事で近づくことを許さなかった。若い頃、楊億と共に侍従にあった頃、楊億は談謔(戯言)を好み同僚と狎侮したが、王曾に対しては「余は戯言を敢えて用いない」と述べたという。平生自ら奉ずること甚だ倹しく、旧知の子孫が来て別れを告げた際、王曾は留めて饌食し、後に合中(箱の中)から数軸の簡紙を送らせ、開いてみるとすべて他人の書簡の裏を裁って再利用したものであった。皇祐中、仁宗は自らその碑を篆して「旌賢の碑」とし、後にその郷も「旌賢郷」と改めた。大臣に碑篆を賜る慣習は王曾から始まった。仁宗が祔廟した後、詔で将相の配享を選ぶ際、王曾を第一とした。王曾には子がなく、養子の縡を、また弟の子融の子繹を後嗣とした。繹は尚書兵部郎中秘閣校理として致仕して卒した。

弟 子融

  • 子融、字は熙仲。当初王曾の奏によって将作監主簿となり、祥符年間の進士に及第、太常丞に累遷し礼院を同知した。著した文を献じて召試を受け直集賢院となり、かつて国朝以来の典礼の因革を論じて『礼閣新編』を編み太常に収蔵させた。三司度支塩鉄判官を権知し、任布が大銭の鋳造と京城での流通を建議した際、三司使程琳が官を集めて議した折、子融は「今、軍営の半分は城外にあるのに大銭のみ城中で使えるとするのはどうか」と述べ、事は結局中止された。刑獄の糾察を権知し河陽を知り、また五代の事を集めて『唐余録』60巻を著し献じた。直龍図閣に進み太常少卿に累遷し大理寺を権判した際、讞獄(判例)の軽重を凖則として類次し断例とした。天章閣待制・尚書吏部郎中・荊南知事を拝命した。盗の張海が襄州・鄧州を掠奪し荊門に至った際、子融は州兵を集めてこれを迎撃させ、賊は引き上げた。右諫議大夫に遷り陝州知事、河中府に転じ、まもなく三班院を勾当し給事中に遷り、尚書工部侍郎集賢院学士として兗州知事となったが赴任せず刑部侍郎で致仕した。英宗即位後、兵部に進み卒した。本名は皥、字は子融であったが、元昊反乱の際に字を名とすることを請うた。性格は倹嗇で、街道の卒が道を修めるにあたり子融の邸店の僅かな土地を侵した際、自ら開封府に赴いて訴えた。しかし子孫を教え諭すことは厳格で家法があり、晩年は仏教を学び僧懐璉と交わった。