宋史卷三百七 列傳第六十六 陳知微

出自と諸官

  • 陳知微、字は希顔、高郵の人。咸平5(1002)年、進士甲科に及第し将作監丞に解褐、歙州通判となり著作佐郎直史館に抜擢、まもなく三司戸部判官を充て契丹への使者となり太常博士に遷り三司都磨勘司を判じた。再び戸部判官となり京東転運副使に出、東平監に侵占されていた民田680家分を返還させ、また古い広済河を通じて運路とし夾黄河の毎年の夫役を数万人分削減した。右司諫に遷り荊湖南路転運使に転じ、召還され比部員外郎知制誥を拝命、淮南の飢饉に際し巡撫の任に赴き至る所で儲糧を視察し諸官吏の能否を調べた。任から戻り吏部銓を判じ刑部を兼ねた。陳知微の詞藻はさほど秀でていなかったが平雅で実用に適し、ある日多くの官の除目の改訂が集中した際、たまたま陳知微の当直の日で、思考も敏速であった。また司農寺を判じ京の刑獄を糾察、天禧2(1018)年、玉清昭応宮判官を加えられ、まもなく病を聞いた真宗は中貴人に太医を挟ませて見舞わせたが卒した、年50。子の舜卿を太常寺奉礼郎に任じ喪が明けるまで俸給を給し、官船を貸して柩を郷里へ運ばせた。陳知微は容儀が優れ沈着で材幹があったが、明察を務めず、母が老いても最後まで孝養できなかったことを人々が惜しんだ。文集30巻あり。子の堯卿は大中祥符5(1012)年に進士に及第した。

史論

  • 喬維岳は吏事に明るく治劇の才があり、しかも法掾を全うさせるほどの仁恕を備えていた。張雍は世に鄙吝と称されたが勤恪で清幹であり、その守備ぶりからもそれがうかがえる。董儼は栄進に走り貨賂を貪り、魏廷式は険を好み人を陥れて時論から容れられなかった。盧琰・宋摶は漕運の整理に方策があり、事務は精詳、治績は明らかであった。楊覃は身を持すること廉潔で吏事にも勤め、陳世卿の遠地平定、李若拙の対外交渉での応対はいずれも当時の評価を得た。繹は謹愿でその家業を世に継ぎ、陳知微は敦実にして材幹があり、その職を辱めなかった点も尊ぶべきである。ただ王陟だけは謹幹と称されながら士を採るに讒謗を招いて汚された、惜しいことである。