宋史卷三百七 列傳第六十六 陳世卿

出自と地方統治

  • 陳世卿、字は光遠、南剣の人。雍熙2(985)年、進士に及第し衡州推官に解褐、東州節度推官に再度改まった。李順が両川に侵寇した際、知州の張雍が州兵馬を数部に分けて官に分担統率させたが、陳世卿は元来射に長け、城の一面を親ら守り数百人を射殺した。賊がなお盛んになると同幕の者は全滅を避ける策を謀ったが、陳世卿は正色して「君の禄を食む者は身を委ねて国に報いるべきで、なぜ難を避けようとするのか」と述べ、すぐに張雍のもとに出て「この連中は皆臆病者で、彼らを留めれば衆を惑わすだけだから、外に出して援軍を求めるべき」と提言、張雍はこれに従った。賊が引き上げた後、陳世卿は父の喪に服したが、張雍がその才を上表し、追って出仕させる詔が下り、掌書記に改まり7年間務め、朝に帰り秘書郎となり太常丞に遷り新安県知事となった。ある者が御史台の任にふさわしいと推薦し召還されたが、張鑑が広州知事に出ると通判に推薦され赴任前に召見され緋を賜り太常博士を加えられた。景徳初、建州知事に転じ、真宗はその材幹を知り、まもなく福建転運使を授け、南剣州安仁等の銀場を規画して毎年の収益を増やし詔で奨励された。まもなく姚鉉に代わって両浙路転運使となり、祠部員外郎を歴任、三司三勾院を判じ、大中祥符4(1011)年、度支員外郎に改まり荊湖北路転運使に出た。
  • 澧州慈利県下の溪等四州の蛮人が県境を侵し地400余里を奪っていたため、朝廷は陳世卿に閤門祗候の史方・澧州知事の劉仁霸と共に討伐させ、奪われた地を回復して境界を確定、また掠奪された漢人千余人を戻させ、澧州武口等の砦を新設して統制した。以後この地は平定され、嘉奨の詔を受けた。朝に帰り、しばしば溪洞(南方少数民族地域)の利害を述べ、真宗はその材幹を評価し、陳世卿自身も煩劇な任地への奉仕を願い出た。邵曄が広州知事の病により、陳世卿を秘書少監として代任させ金紫を加えて賜った。この地には計口買塩(人口割の塩販売)の制度があり不便が多かったため即座に上奏して撤廃した。9年、卒す、年64。子の南安主簿儼を太祝とした。