宋史卷三百六 列傳第六十五 柴成務

出自と初任

  • 柴成務、字は宝臣、曹州済陰の人。父の自牧は進士に挙げられ詩に優れ兵部員外郎に至った。柴成務は乾徳中、京府の抜解で太宗がその名を素より知り首席に推薦、進士甲科に及第、陝州軍事推官に補し曹単観察推官に改まり、大理寺丞に遷った。太平興国5(980)年、太常丞に転じ陝西転運副使を兼ね緋を賜り、殿中侍御史に遷った。8年、供奉官葛彦恭と共に河南の遥堤を巡視、果州・蘇州の知事を経て両浙転運使となり、戸部員外郎直史館に改まり金紫を賜り戸部判官に入り本曹郎中に遷った。太宗は郎官を選び少卿監とし、柴成務は光禄少卿となった。

高麗使と地方統治

  • 高麗への使いを命じられた際、遠俗の高麗が忌避を拘り月日の吉凶を理由に朝使の恩を稽留させたため、柴成務は書簡を往復させ大義を諭し、国人を信服させた(詳細は「高麗伝」に記す)。淳化2(991)年、京東転運使となり、宋州で黄河が決壊した際、氾濫地の租税免除を提言し容れられた。司封郎中知制誥を拝命し銭30万を賜った。当時、宰相の呂蒙正と姻戚関係にあったため辞退したが許されなかった。魏庠と共に京朝官の考課を知り、4年、給事中事を同知した。制勅で不便な点があれば封駁できることとした。蜀の反乱平定後、峡路安撫使として派遣され左諫議大夫・河中府知事に転じた。銀夏がまだ平定されない頃、蒲津は輸送の要衝で事務がよく処理され、脱籍の戸800家を府城に附籍させた。街路が狭かったため、柴成務は将来の行幸に備えて民家を撤去し道路を広げ、後に汾陰への祭祀の際に実際に留蹕することとなり便利であったという。
  • 真宗即位後、給事中・梓州知事に遷り、まもなく代わって帰り青州知事に赴任、永熙陵の復土完了まで留任を求めた。詔で銭若水らと共に『太宗実録』を編修し、書成った後は揚州知事に転じ、尚書刑部を判じることとなった。本司の小吏が倨慢であったため笞刑を加えたところ、その吏が登聞鼓を叩いて冤を訴え、詔で問状を受け、柴成務は「長官として一胥を杖ちながら弾劾されるとは何の面目があろうか」と嘆じ解職を求めた。景徳初、卒す、年71。柴成務は詞学に優れ博聞稽古、談論を好み、士人にその文雅を重んじられたが、地方官としては廉潔さに乏しく世論から惜しまれた。文集20巻あり。柴成務は66歳のとき初めて子を得たが、卒するまでにわずか6歳であった。子は奉礼郎に任じられ名を貽範といい、後に国子博士となった。

史論

  • 謝泌は唐漢の治を述べ、朱台符は商周の鑑を陳べた。二人とも要職を歴任し腹心を尽くして反復して世事を論じ、言い尽くして隠さなかった。孫何の五議、戚綸の十事はいずれも輔治に切実であり、孫何は士人を接することに勤め、戚綸は人材推薦を好んだ点で、共に当世の模範と称すべきである。張去華は気節を重んじつつ後進を育て、樂黄目は詞作に時をかけたが著述は膨大であった。柴成務は清白の操には欠けたが、専対(対外交渉の応対)で国を辱めることはなかった。いずれも称すべき点を持つ人々である。