宋史卷三百六 列傳第六十五 樂黄目

出自と父 樂史

  • 樂黄目、字は公礼、撫州宜黄の人。代々江左の李氏に仕えた家。父の史、字は子正は南唐の斉王李景逹が臨川に鎮した際、上奏文を奉じて秘書郎を授けられ、入朝して平原主簿となった。太平興国5(980)年、顔明逺・劉昌言・張観と共に現任官のまま進士に挙げられたが、太宗は科第を惜しんで諸道掌書記のみを授けた。まもなく及第を賜り、上書言事で著作佐郎・陵州知事に抜擢された。「金明池賦」を献じて三館編修に召され、雍熙3(986)年『貢挙事』20巻・『登科記』30巻・『題解』20巻・『唐登科文選』50巻・『孝弟録』20巻・『続卓異記』3巻を献じ、太宗はその勤勉を嘉して著作郎直史館に遷し、太常博士・舒州知事に転じた。水部員外郎に遷り、淳化4(993)年春、司封員外郎直昭文館の李㽔と共に両浙巡撫の使者となり、都官を加えられ黄州知事となった。『広孝伝』50巻・『総仙記』141巻を献じ、秘閣で書写され進上された。史は好んで著述したが博多くして要を得ず、五帝三王を皆「仙去した」と記したため詭誕と嗤われた。
  • 咸平初、職方に転じ『広孝新書』50巻・『上清文苑』40巻を献じ商州知事に出た。史は前後の民政において賄賂の風聞が多く、老病を理由に解職を求め分司西京となった。5年、郊祀の後、留守司の表による賀を上京した際、真宗は矍鑠たる様子を評価し篤学を知り、著書をすべて秘府に収蔵させ旧職を復して黄目と共に文館にあった。西京磨勘司を掌り、黄目は京西転運使に転じ判留司御史台に改まった。車駕が洛陽に行幸した際に召見され金紫を賜り、史は久しく洛陽で邸を構え亭榭竹樹の風流を楽しみ、まもなく卒した、年78。著書には他に『太平寰宇記』200巻、『総記伝』130巻、『坐知天下記』40巻、『商顔雑録』『広卓異記』各20巻、『諸仙伝』25巻、『宋斉丘文伝』13巻、『杏園集』『李白别集』『神仙宫殿窟宅記』各10巻、『掌上華夷図』1巻、『仙洞集』100巻がある。

出仕と昇進

  • 黄目は淳化3(992)年、進士に挙げられ伊闕尉に補し大理寺丞・寿安県知事に遷った。咸平中、壁州知事に転じようとしたが赴任前に辺事を上言して召見され殿中丞を拝命、後に直史館・浚儀県知事となり、州県の考課制について唐開元2年の刺史選任制の故事を引き改善を上言した。度支・塩鉄判官を歴任し太常博士・京西転運使となったが母の喪に服し、真宗の洛陽行幸への供億のため職務に復帰させられたが、樂史がまもなく卒した。上は再び喪を返し、大中祥符中、契丹への使いを終えて工部員外郎・広南西路転運使に改まり、起居郎・陝西転運使に転じ金紫を賜った。陳堯咨が永興知事として気位高く黄目を凌辱しようとしたため解職を求めたが許されず、後に密告により堯咨の不法が明らかになり黄目が実情を調べて奏したことで堯咨は龍図閣職を罷免され鄧州知事に降された。8年、黄目は三司の三勾院を判じるに入ったが、天禧初、馬元方が黄目の職務怠慢を奏し三勾院は三人に分担された。黄目は罷任後、兵部員外郎知制誥・会霊観判官を拝命したが、辞令の作成が遅いと批判され、盛度が京府知事を拝命を辞退したため黄目が右諫議大夫権知開封府に遷り度は会霊観判官となり、両者の任が交換された。仁宗の立太子に伴い給事中兼左庶子となったが、入内副都知の張継能の私的な依頼を受けた事が発覚し左諫議大夫・荊南府知事に降された。翌年、給事中に復し潭州・長沙に転じ、給与が荊州諸州より少ないことに特に増額の詔を受け、兵賦の繁忙な地への任命の意を諭された。5年に代わり帰り審官院を知り、風疾を病んで題品(人物評価)が不当と批判され通進銀台司兼門下封駁事に改まり、数月後に外任を求め亳州知事となったが幼子の死報を聞いて悲慟し病が悪化し、卒した、年56。子の理国を衛尉寺丞、定国を大理評事とした。黄目は面柔で控えめな官吏で、劇務にあたっても敗事なく、文集50巻、『学海捜奇録』40巻、『聖朝郡国志』20巻を著した。黄目の兄黄裳、弟黄庭、黄裳の孫の滋は共に進士に及第、黄裳・黄庭はいずれも太常博士に至った。