王彬
- 光州固始の人。祖父の彦英、父の仁偘は一族の潮に随って閩に入った。潮が閩の地を得ると彦英が用いられたが潮はその勢力を憎み陰謀を企てたため、彦英はこれに気づき家を挙げて海を渡り新羅に逃れた。新羅の王はその才を愛して用い、父子が相継いで国政を執った。彬は年十八で賓貢(外国人科挙)で太学に入り、淳化三年に進士に及第し、雍邱尉に任じられた。皇城司が密かに人を畿県に下し多くの令佐を厲民(民を虐げること)で刺察し賓主のように振る舞わせていた際、彬はこれを捕縛し賄賂を受けていたことを法に処した。以来、詔で親事官の出都は禁じられた。
- 右班殿直に易えられ辞退したが受けなかった。後に秘書省著作佐郎として筠州通判、撫州知州を歴任した。撫州の民の李甲・饒英は財力を恃み鄉曲で武断(暴力による支配)していた。甲の従子(甥)が令を罵り甲が乗輿(帝)を斥する言をしたと訴えられた事件で、彬は按治し家宅を捜索し隠された兵械と龍鳳の装飾がある服器を発見し、大逆罪として棄市に処した。あわせて英がかつて人の妻子を強奪していたことを按じ嶺南に配流した。州里は粛然とした。
- 荊湖南路刑獄提点に擢され潭州知州に入り三司戸部勾院判に転じ、京西轉運使に出て河北に徙った。部内の吏である馬崇正が章獻太后の姻家(親戚)を恃み豪横不法であったが彬はその姦贓を発き吏に下し太后の意に逆らったため京東、さらに河東・陝西に徙り再び三司鹽鐵判官として都理欠憑由司判、太常少卿に累遷し卒した。